モスクワに行く少し前、私たち夫婦は統一教会の元老信徒たちに会って時間を共にしました。多くの信徒が、何とかして私たちを引き止めようとしました。
「なぜ危険な共産主義の本拠地に、あえて行こうとされるのですか?」
しかし何ものも、私たち夫婦の意志を曲げることはできませんでした。文総裁は信徒の顔を一人一人眺めた後、思いがけない言葉を発しました。
「統一教会の第二教主を決定する時が来ました」
突然出てきた「第二教主」という言葉に、誰も、何も言えませんでした。文総裁はもう一度信徒を見回した後、ゆつくり口を開きました。
「私がいなくても、お母様がいればいいのです」
この瞬間、「統一教会の第二教主」としての、私の重大な使命が明確になったのです。人々は驚いていましたが、私は静かにその言葉を受け止めました。世を救う独り娘、平和の母としての使命は、既に三十年前から与えられたものでしたが、私は文総裁が最前線で摂理を率いていけるよう、内助に最善を尽くしていました。その日、第二教主を発表したのは、モスクワで起こり得る不測の事態に備えながら、今後のことを念頭に置いた上での措置でした。
一九九〇年三月二十七日、統一教会の名節(記念且の一つである「真の父母の日」を迎え、アメリカのニユーョークで行われた記念礼拝で「女性全体解放圏」が宣布されることで、私は統一教会の第二教主となりました。
その後、一九九四年十一月二十七日には、ニユーョークのべルべディアで第二教主としての私の公的使命が改めて公表され、その意義が強調されました。十六万人の日本人女性教育と各国での大会が終わり、私の役割がさらに重大になっていた頃のことです。その日、私は信徒たちの前で、「みな一つとなり、真の父母の伝統を立てる家庭になることを誓いましよう」と決意を促しました。
また、一九九一年六月には、カナダのクレアストーンの本館で「顧命性宣誓宣布」が行われました。「顧命」とは、「王の遺言」を意味する言葉です。文総裁は御自身が聖和した後も、私が神様の使命を引き継いで果たしていけるよう、日本の女性代表が責任を持って真の母を支えていくべきことを、顧命として宣布されたのです。この宣布には、日本が真の母と一つになり、
世界を抱いていかなければならないという使命も含まれていました。このように文総裁は、幾度にもわたって、御自分が不在となる万一の場合に備えられたのです。
一九九〇年四月、モスクワで「世界言論人大会」が開かれました。ゴルバチョフは、大会に参加した世界の指導者たちをクレムリン宮殿に招待したのですが、その中で女性は私一人だけでした。ソ連の大統領執務室は出入りを厳しく制限していましたが、私は特別待遇を受けたのです。私たち夫婦は、ゴルバチョフに「中南米統合機構(AULA)」が制定した「自由と統一のための大十字勲章」を授与した上で、彼の手を握り、祝祷しました。
「この大統領を神様が祝福してくださいませ」
無神論を主張する共産主義世界の宗主国、ソ連。そのソ連の大統領執務室で、神様の祝福を願う祈祷をするということ自体が、共産主義の体制上、異例のことでした。
祈祷を終えて談笑していると、ゴルバチョフが私に向かって言いました。
「韓服がょくお似合いですね、本当にお美しいです」
私もすぐに返しました。
「ラィサ夫人こそ本当にお美しいです。世界中の女性が尊敬しています。明日、ラィサ夫人にお会いできるのを楽しみにしております。夫も申し上げましたが、大統領は本当にハンサムでいらつしやいますね|。
お互いに賛美し合う中で、雰囲気が次第に和やかになっていきました。ゴルバチョフは気分が舞い上がったのか、豪快に笑いました。私はこれが祈祷の力であり、役事だと思いました。
その後に行われた会談により、世界の歴史が変わりました。文総裁はためらうことなく、ゴルバチョフに向かって忠告をしました。
「ソ連の成功は、神様を中心とするか否かにかかっています。無神論は自滅と災いを招くだけです」
ソ連が生き残る道は、共産主義革命の父と呼ばれるレーニンの銅像を撤去し、宗教の自由を認めることだけである。さらに、共産主義を終わらせ、神主義を受け入れなさい、と堂々と語ったのです。ゴルバチョフの顔には困惑の色がありありと浮かびましたが、最後には私たち夫婦の言葉を受け入れました。それまで、クレムリン宮殿でそのような話をした人は一人もいませんでした。
世界が固唾を飲んで見守った会談は、成功裏に終わりました。その時から、ソ連は急速に変わり始めたのです。それは単なる変化を超え、もはや革命とも言えるものでした。特に、私たち夫婦と統一教会に対する、ソ連およびゴルバチョフの信頼は、次第に大きくなっていきました。私たちは三千人を超えるソ連の青年や教授をアメリカに呼び、教育を受けさせました。
その後、ソ連にクーデターが起き、しばらく混乱が続きました。ゴルバチョフが改革と開放を勢いよく進める中、共産主義体制における保守派がクーデターを起こし、大統領をクリミア半島のフォロスに軟禁したのです。しかし、幸いにも彼は九死に一生を得て、帰ってくることができました。
また、開放政策を通してソ連が民主主義に向かう中で、私たちが教育した大学生や青年たちがクーデタ1派の指揮下にあった戦車に立ち向かい、身を挺して阻止するということもありました。彼らはゴルバチョフとエリツィンが再び手を取ってソ連を解体し、冷戦を終息させるに当たって、牽引車の役割を果たしたのです。文総裁と私がゴルバチョフの執務室で捧げた「この大統領を神様が祝福してください」という祝祷が、天運をもたらしたのです。
一方で、私たちは会談ょりずっと前から、ヨ—ロツバの若者を中心に、ソ連と東ヨーロツバに地下宣教師を密かに派遣していました。青年メンバーがある日突然、姿を消すので、周りの人々は気掛かりに思ったことでしょう。彼らは東ヨ—ロツバの主要都市に入り、地道に活動を続けて、ソ連を崩壊させるとともに民主主義を定着させるに当たって、一翼を担ったのです。
ゴルバチョフとの会談から一年八力月後、ソ連共産党が解体され、凍土の王国は歴史の表舞台から消え去りました。一九一七年の十月革命以来、七十数年の間、世界の三分の二を支配下に収め、数億に上る人々の血を流し、人類を恐怖に追いやった共産主義の宗主国、ソ連が、ついにその赤旗を下ろしたのです。これは、神様を否定する無神論の世界観が敗北したことを意味しました。さらに、葛藤と闘争、憎悪の哲学の限界を暴き出し、共産党の独裁体制の崩壊を宣言したことになったのです。
振り返れば、私たち夫婦のソ連入国、およびゴルバチョフとの会談は、薄水を踏むような一世一代の冒険でした。しかし、それが共産主義の力を失わせ、世界の版図を変えるに当たって、決定的役割を果たしたのです。
ゴルバチョフとの会談後、私たちはこれから大きく変わりゆく世界において、実質的に平和をつくり上げていける団体が必要だと考えました。その頃、世界に暗い影を落としていたのは、宗教の衰退と道徳性の喪失、そして共産主義の浸透でした。
その中で共産主義は、私たち夫婦の三十年以上にわたる努力により、宗主国のソ連ですら解体され、力を失うという結末を迎えました。しかし宗教問題は、いまだ非常に深刻な状況にありました。宗教指導者たちが解くべき宿題とは、いかにして宗教紛争を防ぎ、疲弊していく宗教が再び人生の羅針盤となるようにするか、ということでした。その土台の上で、道徳性を回復していく必要があったのです。
私たちはこの使命を果たすために百二十ヵ国を巡回し、「天宙平和連合(UPF)」を創設しました。真の平和世界をつくるために汗を流す人々と団体を一つに束ね、地球村の毛細血管のような役割を果たせるようにしたのです。
各界各層の名だたる人々が私たちの志に共感し、平和大使になりました。二〇〇一年に韓国の十二都市でスタートした平和大使活動は、すぐに世界各地へ広がっていきました。彼らの純粋さと、その意義深い活動に感銘を受け、今や百六十以上の国で百万人を超える平和大使が、真の平和を根づかせるため、それぞれの分野で様々な行動を起こしています。また、国連の経済社会理事会から特殊諮問資格を得たNGoにもなっています。
さらにそこから発展して、国連に加盟した国々が自国の権益だけを主張し合い、地球上で起こっている紛争をいまだに解決できていない現実において、真のビジョンを提示する「真の父母国連」をつくり、世界各地で奉仕活動を展開しています。
平和大使は、様々な専門分野の人々が参加し、世界の隅々まで訪ねていって平和を実践しています。紛争のある所、貧困によりまともに教育が受けられない人々がいる所、宗教的対立がある所、病気で苦しんでいても治療を受けられない人々がいる所を訪ねてその痛みを治癒し、より良い生活ができるように、献身的に活動しているのです。
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