世界平和女性連合はその場で、これまでの公正で幅広い活動が認められ、主要NGOとして選ばれました。モスクワで、当局の反対により集会を開けなかったのがつい昨日のことのようですが、世界平和女性連合は今や、国連が積極的に後援する重要な団体になりました。地球の至る所で献身的に歩んできた女性連合の平和精神と奉仕の実践が、光り輝いた瞬間でした。
その出発は、一九九一年に遡ります〇同年九月、日本で東京大会を開き、首相夫人など約七千人の女性代表が出席する中、「アジア平和女性連合」を創設したのです。私は創設者として、「アジアと世界を救う真の愛運動」というテーマで講演をしました。
翌九二年の四月、七十ヵ国以上から十六万人の女性がソウルに集まりました。参加者たちの乗る四千台近いバスが蚕室総合運動場に向かったため、ソウル市内の交通網が麻痺してしまうほどでした。女性時代が宣布される現場を目撃したいと願う人たちが、それほどたくさんいたということです。
こうして、その日誕生した世界平和女性連合は、決して世の中のありふれた女性団体の一つではなく、新しい時代を映す鏡になることを示したのです。
同年九月には、日本の東京ド—ムで「世界平和女性連合創立記念日本大会」を行い、五万人の聴衆に向かって講演を行いました。準備期間はわずかでしたが、沸き立つ情熱をすべてぶつけ、深い共感を呼びました。
私の講演は、これまで男性が主導してきた戦争や暴力、葛藤を終わらせ、愛と平和のあふれる理想世界に向かって進むための羅針盤となるものでした。その後、私は世界を巡回しながら女性指導者たちを激励し、皆が共感する真の女性運動を展開していきました。その中でモスクヮにも赴き、数多くの女性や信徒たちと喜びの邂逅を果たして、大会を成功裏に終えました。
女性はこれまで、女性の持つ真の価値を知らない男性たちから、正当な待遇を受けられずにいました。それを打破するために女権拡張運動や女性解放運動にも身を投じてきたわけですが、それらは主に男性を相手にした闘争的で政治的な運動でした。
しかし、私は世界平和女性連合を通して、皆が女性の真の価値に目覚め、女性自身はもちろん、男性までも包容して発展していく運動を展開したのです。
女性が時代をそのまま映す鏡となるためには、まず自分自身が清く純粋でなければならず、自らを従えることのできる強い内面の力を持たなければなりません。孝行心を持って親に保る真なる娘となり、貞節と献身をもって夫を支える真なる妻になるべきです。また、愛と精誠によって子女を育てる、真なる母とならなければなりません。そうして、神様に侍る真の愛の家庭を築き、平和世界を実現する先頭に立つ、真の女性指導者にならなければならないのです。
砂漠の真ん中で針を探す
砂嵐がびゅうびゅう吹き荒れると、目を開けることもできません。砂は目の中や服の隙間に、容赦なく入り込んできます。太陽も、ぎらぎらと照りつけてきます。
砂漠では、たった一歩を踏み出すことさえ、非常に骨が折れることです。旅行客はせいぜい数日過ごすだけですが、そこで暮らす人々は、日々苦労が絶えないのではないかと、不憫にも思えます。しかし、実際にそこの人々は、砂嵐や熱い日差しを友のように考えていることでしょう。本当の意味で生活を苦しいものにする原因は、ほかにあるのです。
古代文明の発祥地であるナイル川の周辺。そこにそびえるピラミッドは、四千五百年前に建設されたものです。あのように途方もない重さの巨石を運び込み、建設することは、今日の科学技術をもって—^ても簡単ではありません。
さらに根本的な疑問は、彼らがなぜそのような建築物を建てたのか、ということです。それは、肉身がある時の生活よりも、永遠の世界での生活を追い求めたからです。人類は本心の作用により、神様の元に帰りたいと願っています。彼らは地上生活よりも、永遠の世界、霊界での生活をより重視して生きていたのです。
一九六九年の世界巡回の際、私たち夫婦は中東のイスラエルに立ち寄りました。私たちが到着したのは、とりわけ暑さの厳しい日でした。イスラエルは、面積が韓国の五分の一しかない小さな国です。聖書に出てくる場所を訪ねて一周したのですが、わずか四時間で回り切ってしまいました。私たちは巡礼をしながら、普段はこのように平和な所なのに、どうして絶えず紛争と葛藤、そしてテロが起こるのだろうかと、疑問に思いました。
中東は二千年前にイエス様が誕生した、神聖な地です。もともと、優れた文明によって世界の文化をリードしてきた優秀な民族の居住地でした。しかし今日、そこは宗教間の葛藤が絶えず起き、痛みを抱え続ける場所となっています。「世界の火薬庫」という不名誉な名前が付けられても相変わらず、一日も途切れることなくどこかでテロが起きて、善良な人々の命を奪っているのです。
私たちは、爆弾やテロ、様々な衝突が繰り返される中東の真ん中で、危険を顧みず、和解と愛によって平和を実践する活動に早くから取り掛かりました。六〇年代の中盤以降、ヨーロッパの宣教師たちが次々とヨルダン、イラン、レバノンに向かいました。その中には女性信徒も大勢いました。
彼女たちは他のどの大陸の宣教師よりも、多くの苦難に遭いました。試練や迫害は日常茶飯事で、追放されることもしばしばあったのです。いくつかのイスラーム国家では、宣教そのものが厳しく禁止されていたため、ややもすれば命を落とす可能性すらありました。それでも彼女たちの献身により、人々は少しずつ心の扉を開き始め、教育と奉仕に参加することを通して、理解を深めていったのです。
私たちはムスリムの指導者を、少ない時は数-^--多い時は数百人ずつニューョークに招待し、新しいみ言、「統一原理」を伝えました。そうして、その内容に感服したムスリムの人々が祝福結婚式に参加するようになったのです。これは歴史上初めての、偉大な宗教和合の瞬間でした。
私はこれにとどまらず、また中東に渡って、トルコで「真の父母と成約時代」というテーマで講演を行いました。ところが、その講演でィスラームについても、ムハンマドについても言及しなかったところ、聴衆の半分が退場してしまうということがありました。
ィスラエルのエルサレムで講演を行うことを決めた時は、大きな議論が巻き起こりました。「そこは今、戦争の本場のような所なのに、なぜ行かれるのですか?」
「テロが収まった頃に行かれるほうが良いと思いますが……」
しかし、私は銃刀や砲煙を意に介さず、エルサレムに行きました。ユダヤ教の人たちによる反対で講演会場の予約が急遽キャンセルとなり、急いで場所を移さなければならなくなったり、大会で多くの人々が、自分の考える内容とは違うといって、途中で席を立ってしまったりもしました。しかしそれでも、私は屈したり落胆したりせず、最後まで講演を行ったのです。人類救済のために出発した私を、何ものも遮ることはできませんでした。
信徒たちは、中東へ行くこと自体が極めて危険であり、そこの人々の意に沿わない講演をすれば、激しい反対や嘲笑を受けるだろうと心配して、私を引き止めました〇しかし、私はそれ以上に危険な所を何度も越えてきていたので、少しも躊躇しませんでした。私を待っている人が一人でもいるならば、地球の果てまでも訪ねていって救いの門を開くのが、独り娘の使命なのです。
二〇〇〇年代に入ってからは、それまでとは異なる次元で中東平和運動を行いました。その一つがユダヤ教徒とキリスト教徒を和解させることです。教会から十字架を降ろす活動では、十字架を担いでエルサレムの街を行進し、イスカリオテのユダがイエス様を売り渡して得た銀貨三十枚を使って購入したという「血の畑」に、十字架を埋めました。その場にいた一人のユダヤ人女性は、ユダヤ人の二千年の怨恨が解かれていくのを感じたと証言しました。両宗教の和合のために、「エルサレム宣言」も発表しました。
また、万王の王として人類を訪ねてこられたにもかかわらず、十字架にかけられ、み旨を成し遂げることができなかったイエス様の心情を解放するために、イエス様の戴冠式を行いました。その場には、イエス様に反対したユダヤ教の人々も参加し、式典をさらに意義深いものにしました。宗教指導者をはじめ、七十ヵ国以上から来た三千人を含む、総勢三万人以上の人々が集ったこの戴冠式には、イスラエルとパレスチナの人々も大勢参加していましたが、彼らがみな、そこで熱い抱擁を交わしたのです。
これらすベての中東平和運動の根底には、私たち夫婦の志に従った女性信徒たちの献身があります。彼女たちは見知らぬ土地、過酷な自然、砂嵐が吹き荒ぶ砂漠を舞台に、十年以上の間、自分の家庭のこと以上に投入し、献身的に活動してきたのです。
私たち夫婦が中東を初めて訪れたのは、もう五十年も前のことです。熱風の吹く砂漠に最初に足を踏み入れた時のときめきと憂いは、今も鮮明に覚えています。その時、中東の様々な国を巡回しながら、すべての国が一丸となって平和を実現できるよう、切に祈りました。まさに砂漠の真ん中に立ち、一人で小さな針を探すような心情でした。しかし私は、平和な世界をつくるまでは、決して背を向けないと決意しました。
独り娘が共にいるのに、いまだそのことを知らずにいる人々によってテロが行われているのは、悲しいことです。しかし、この悲劇の悪循環にもようやく終わりが見え始めました。中東の地にも、人類を救うための独り娘のみ言を受け入れる人々が少しずつ増え、真の平和が根を下ろしつつあるのです。
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