一九五五年七月四日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。
そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破いてしまいました。
私はソウル地方検察庁に送致され、西大門刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥ずかしいとか寂しいとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折させる罠とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。
悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱の似非教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵っても、私は決して動揺しませんでした。
しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉が締めつけられ、骨身に沁みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」と言って、歯を食いしばりました。「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ」と心に誓いました。
世間は、私が捕まって刑務所に行けば、教会は潰れて、信徒たちはすぐにばらばらになって去っていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている問、毎日、信徒たちの誰も彼もが私に面会に来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに、彼らは明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も、次第に多くなりました。
私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも、彼らは涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判を受けに行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。
「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」
刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。
「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんなふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明は独裁者で搾取する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。結局、収監されて三カ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三カ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めたので、噂とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。
捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごとデタラメだったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」と言って、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。
デマによって後ろ指をさされ、弄ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。風雨に曝され、火に焼かれても、絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。
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