結婚してから、私は妻と約束をしました。
「いくら憤懣やるかたないことがあっても、信徒たちに『先生夫婦が喧嘩した』と思わせないようにしよう。これから子供を何人生んでも、父母が喧嘩したところを見せないようにしよう。子供たちは神様だからね。子供たちはとても小さな愛の神様だ。だから、子供たちが『お母さん!』と呼ぶときは、無条件に笑って『どうしたの?』と答えなければいけない」
7年間、そのように容赦のない訓練を受けた後、妻は初めて母らしくなりました。教会の中で、妻をめぐってなんだかんだと言っていた陰口は姿を消し、家庭にも安らかな幸福が訪れてきました。妻は14人の子供を生みましたが、世界中を講演して回る私と一緒に家を離れているときは、毎日、子供たちに手紙やはがきを書いて送るのを欠かさないほど、子供たちを愛で包んで育てました。
21年間に14人の子供を生んで育てたのですから、言うに言えない苦労があったはずですが、その素振りさえ見せませんでした。出産を控えた妻を置いて、私が海外に行ってしまったことも一度や二度ではありません。信徒たちが送ってくる手紙で、妻の生活が大変で栄養状態が心配だという内容を読んでも、どうすることもできない日もありました。それでも妻は、一度もつらいと不平を言ったことがありません。今も済まないと思うのは、一日に二、三時間しか眠らない夫に合わせるために、つまもこれまで毎日二、三時間しか眠ることができなかったことです。
妻は自分の結婚記念の指輪まで人にあげてしまうほど情け深い女性です。ぼろを着た人を見れば服を買ってあげ、あなかを空かせた人に会えばご飯を振る舞いました。家にプレゼントが届いても、開けずにそのまま人にあげてしまうこともしばしばでした。ある時、オランダを巡回している途中、ダイヤモンドの加工工場に寄る機会があり、それまで苦労をかけてきたお詫びの印に、妻にダイヤモンドの指輪を買ったことがあります。お金が少なくて大きなものは買えませんでしたが、私が見て良いと思うものを一大決心して買いました。しかし、その指輪さえ人にあげてしまいました。私が妻の指に何もないのを見て、「指輪はどこに行ったのか?」と聞くと、「どこに行くも何も、流れていきましたよ」と言うのです。
いつだったか、黙って大きな風呂敷を出して、服を包んでいる妻を見つけて、理由を尋ねました。
「それをどうするのか?」
「使うところがあります」
詳しい話はせずに風呂敷をいくつか包んでいました。後で知ったところによると、妻は国外に出ている宣教師たちに送ろうとしていたのです。「これはモンゴル行き、これはアフリカ行き、これはパラグアイ行き……」と、ふふふと笑う妻の心が本当に美しく感じられました。今でも、海外に出ている宣教師たちをあれこれと世話するのは妻の役目です。
妻は1979年に「国際救護親善財団(IRFF)」を作り、今もアフリカのコンゴ(旧ザイール)、セネガル、コートジボワールなどの国々を回って奉仕活動をしています。貧しい子供たちに食べ物を分け与え、体の具合の悪い人には医療品を、ぼろを着た人には衣服を届けます。韓国でも1994年に「愛苑銀行」を作りました。孤児救済と無料食堂の運営、北朝鮮同胞救済などの活動を行っています。また妻は、以前から女性団体の仕事もしています。妻が責任を持つ「世界平和女性連合」は世界80カ国に支部を置く団体であり、国連にも登録されたNGO(非政府組織)です。
人類の歴史において、女性はいつも抑圧される立場にいました。しかし、これから訪れる世界は、女性の母性と愛、親和力が土台となった和解と平和の世界です。女性の力が世界を救う時代が到来するのです。
しかし、今日の女性団体は、不忠義にも男性に反対することが女性のパワーを示すことだと言わんばかりに、男性を目の敵にして敵対しようとばかりします。妻が責任を持って運営する女性団体では、宗教に基礎を置いて、愛で平和世界を開いていく運動を展開しています。家庭を壊して飛び出してくる女性解放ではなく、真の家庭を守り、愛を実践する女性運動です。「女性はまず孝の心を持つ真の娘として育ち、結婚して貞節と献身で夫を支える妻となり、子供を正しく育てて社会のために奉仕する指導者となるように導く」ーーそうした女性を社会に送り出すことが妻の夢なのです。妻が率いる女性運動は、真の家庭を作るためのものです。
私が公的な仕事で忙しい時期に、私の子供たちは一年の半分近くを父も母もいない中で生活しなければなりませんでした。子供たちは、両親のいない家で信徒たちと共同体を作って暮らします。家の中はいつも信徒たちでいっぱいでした。また、わが家の食卓はいつもお客さんが優先で、子供たちは後回しでした。このような環境のために、子供たちは普通の家庭の子供であれば感じないような孤独を嫌というほど感じて育ちました。しかし、それよりもっと厳しい困難は、父親のことで受けなければならない苦痛でした。どこに行っても「異端の教祖、文鮮明」の息子・娘として指をさされたのです。それぞれあてどなく彷徨う時期を経験しましたが、子供たちはいつも元の位置に戻ってきてくれました。親として注意深く面倒を見てやることもできなかったのですが、今ではハーバード大学の卒業生が5人もいるのですから、これ以上ありがたいことはありません。今、子供たちは、私の仕事を助けてくれるほど皆成長しました。しかし、私は依然として厳格な父です。今も変わらず、父である私以上にもっとよく天に仕え、人類のために生きる人とならなければならないと教えています。
大抵のことには動じない妻でしたが、2番目の息子、興進の死に直面した時は、大変な悲しみを乗り越えなければなりませんでした。1983年12月のことです。私は妻と共に全羅南道光州で開かれた勝共決起大会に臨んでいました。興進が交通事故に遭って病院に運ばれたという国際電話を受けましたが、2日間の公式日程が残っていたため、すぐに渡米することはできませんでした。公式行事の全日程を終えた後、ニューヨークに急行しましたが、病室に横たわった興進はすでに意識がありませんでした。
坂道を加速しながら下ってきたトラックが急ブレーキを踏んで、横滑りして起きた事故でした。興進の車には親友二人が一緒に乗っていました。自分の命が危ない緊迫した状況の中での、興進は急いでハンドルを右側に切り、自分の座る運転席がトラックとぶつかるようにして、助手席と後部座席に座った友人たちの命を救いました。事故現場の坂道に行ってみると、道路には、右側に急ハンドルを切ったタイヤの黒い跡がそのまま残っていました。
結局、興進は、年を越えた1984年1月2日の早朝、天の国へと旅立ちました。ちょうど一月前に17歳の誕生日を迎えたばかりでした。育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは筆舌に尽くしがたいものでしたが、声を出して泣くどころか涙さえ流すことができませんでした。私たちは霊魂の世界を知っています。人の霊魂は命を失ったからといって埃のように消えてしまうのではなく、霊魂の世界に行きます。しかし、愛する子供ともはやこの世で会うことも触れることもできないということは、親として耐えがたい苦痛です。思いどおりに泣くこともできなかった妻は、興進を乗せた霊柩車を何度も撫でていました。
このように大きな苦痛を経験するたびに心に衝撃を受けたはずですが、妻はよく乗り越えてくれました。いくら困難で大変な状況の中でも、妻は穏やかな笑顔を忘れずに人生の峠を越えてきました。信徒たちが子供の問題で妻に相談に来ると、妻は笑顔で答えます。
「待ってあげましょう。子供たちが道に迷うのは一時のことで、いつかは過ぎ去ります。子供たちが何をしても、絶えず抱き締めるような気持ちで愛してあげながら、あとは待ちましょう。子供たちは必ず両親の愛の懐の中に戻ってきます」
私は生涯、妻に大声を出したことがありません。私の性格がもともとそうだからではなく、妻が大声を出させるようなことをしたことがないからです。私の理髪もこれまでずっと妻がやってくれました。妻の理髪の腕は世界最高です。最近は、私も随分と年を取ったせいで、妻に頼ることが多くなりました。「足の爪を切ってほしい」と言えば、妻はさっと切ってくれます。足の爪は問題なく私の足の爪ですが、私の目にはよく見えず、妻の目のほうがよく見えるのですから、不思議なものです。年を取るほど、そのような妻がますます貴くなります。
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