それでは、何が人間をこのように悲惨な堕落の道に追いやったのでしょうか。一言で言うと、堕落とは、自己中心的自覚から始まりました。今日、私たちの周辺で、堂々と我がもの顔で猛威を振るっている極度の利己主義的思考と行為が、正に私たちを堕落の道に追いやった元凶なのです。
他人の立場や境遇を考える前に、自らの利益や都合だけを追求する拙劣な行為、他人が死のうと死ぬまいと自分だけが生きようという破廉恥な姿は、みな堕落が引き起こした行真の片鱗なのです。しかし、これは、創造当時に神様が計画された本来の目的ではありません。神様もこのような世の中を願われず、人間もこのような世の中に生まれて暮らすことを願いませんでした。したがって神様は、このような悲惨な歴史、悲しみと苦痛に満ちた歴史を清算して、本来願われた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すことを目的として立て、この堕落した世の中を収拾してこられているのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道なのです。
堕落したアダムとエバの子孫に転落した人類になりましたが、人間には誰しも本然の世界を指向する本心が残っているので、人類は歴史を通して神様が願われる世界を望み、指向してきたのであり、私たちのその希望は、行くまいとしても行かざるを得ない、困難であるとしてもかなえざるを得ない理想として残されたのです。神様は、堕落した人類に、時代に従って、新しい理想と新しい心情を取り戻してあげるために、今日に至るまで摂理を繰り返してこられました。
もし、そのような理想を成就する一日が、天と地に訪れなければ、また、天と地を動かすことのできる中心存在、そしてその中心存在を軸にして共に動くことのできる人々が現れ、天地が一つになって一つの目的を指向できる道を開くことができなければ、この地上に真の自由と平和と理想が訪れないのです。そうなると、人間は蕩減復帰の歴史過程から抜け出すことができなくなるでしょう。
このような事情があるので、神様は、私たちに栄光の立場でお訪ねになることができないのです。平和と自由と理想をもってお訪ねになることもできません。反対に祭物の時を歩んで私たちをお訪ねになるしかないのです。蕩減復帰の道だからです。神様の悲しい心情を一掃してさしあげる一時、すなわち神様の心中にしみ込んでいる恨を解いてさしあげることのできる一時を探し立てることができない限り、人類の平和はもちろん、神様の創造理想もこの地上でその実を結ぶことはできないのです。
ですから、私たちは、神様の胸にしこりとなっている恨を解いてさしあげることによって、神様を解放してさしあげる責任があります。しかし、このような事実を、今日、イエス様を信じる聖徒たちは知らずにいます。私たちは、堕落した人間なので、堕落以前の本然の状態を取り戻し、神様を失ってしまった人間なので、神様を失う以前の立場を取り戻し、人類の真の父母を失ってしまったので、真の父母を失う以前の立場を取り戻さなければならないのです。
私たちは、神様と真の父母を中心とした平和の園において、子女として生活できるその立場を取り戻し、その立場に立たなければならないようになっています。この課題を成就するために、今日の私たちには、新たに救援摂理が残るようになったのです。
全知全能の神様は、どのような作戦によって地獄のようなこの世界を平和の世界へと変えるのでしょうか。本来、人が堕落していなければ、神様の愛を中心として人間の心と体が二律背反的な位置に立つことは絶対にあり得ません。しかし、堕落することによってそのような位置に立ったので、歴史路程を再度収拾し、一つの世界平和圏をつくって安着できる基地を用意するために、神様は救援摂理、すなわち復帰摂理において、多くの宗教儀式や規則を通して、受難と犠牲と流血の歴史を綴ってきたという事実を知らなければなりません。
しかし、仮に心情の基準を立てることができないままその世界を取り戻したとしても、それはいつか再び整理しなければなりません。いくら良い理想をもったとしても、あるいは全世界を一つにして理想的な平和世界を樹立したとしても、個々人がその世界を考え、その世界に応じ、その世界の動きによってその世界と一つになる心情の基準をもつことができなければ、いくらそれが願っていた理想世界だとしても、その世界は自分自身とは何の関係もなくなるのです。
絶対者、創造主によってつくられた万物も、創造主の愛を受け、また創造主と一つになることが目的です。したがって、万物の霊長と言われる人間が、万物を主管できる立場に立とうとすれば、必ず神様の心情を身代わりする位置に立たなければなりません。このような心情は、神様と人間が父子関係だということを証明してくれる証票であることはもちろん、万物と人間を結んでくれる鎖でもあるのです。
ところが、このような平和の理想世界、すなわち創造本然の世界を復帰するには、必ず蕩減の条件を立てなければなりません。蕩減復帰の過程を経なければならないのです。蕩減復帰とは何を意味するのでしょうか。何であっても、その本然の位置と状態を喪失したとき、それらを本来の位置と状態に復帰するには、必ずそこに必要なある条件を立てなければなりません。そのような条件を立てることを「蕩減」といいます。
しかし一般社会では、「蕩減」という言葉をそれほど重要視していません。そのような言葉はありますが、その内容をよく知らずにいるからです。天と地、神様と私たち人間だけならば、このような「蕩減」という言葉は必要ないはずです。すべて、私たちの最初の先祖を堕落させたサタンのためなのです。サタンがいなければ蕩減も必要なく、今日私たちが、喉が張り裂けるほど叫んでいる「宗教統一」という言葉も必要なく、「神様の解放」や「人類の解放」といった単語も必要ない世界になっていたでしょう。
堕落が人類歴史の破綻、苦悩と失敗の歴史、戦争の歴史をもたらしたので、これを一掃してすべての根本問題を解くためには、神様のために生き、人類のために生き、すべてのもののために生きる真の愛の生活から、その根源を探し出さなければなりません。そうでなければ、平和の根源は発見できず、平和の根源を発見できなければ平和の世界も見いだすことはできないのです。
イエス様は、この地に来て何をしたでしょうか。迫害を受けて十字架で亡くなりながらも人類を愛そうとしました。十字架を中心として愛を施すことに我を忘れて逝った人です。愛を受けようとしたのではありません。怨讐までも愛そうとしました。皆様の人生においても、愛を受けようという方向性から、愛を与えて生きようという方向性に転換し、その基準が世界化されれば、その時には平和の世界が訪れるでしょう。愛を受けようという意識ばかりをもった人々が暮らす所には、永遠に平和の世界が来ることはありません。自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないのです。
すべての人を自分の父母、自分の兄弟、自分の子女のように感じ、接することのできる人格体になれば、皆様は死亡の世界で苦しむ多くの民を見るとき、涙なくして向き合うことができないはずです。青少年が麻薬と放蕩の沼でもがくのを見るとき、自分の子女を救う心情で、彼らを救うために心血を注がざるを得ないはずです。それは、受けようという愛ではなく、我知らず与えようとする愛の発露なのです。
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