日付:一九七〇年七月十五日
場所:韓国、ソウル、龍山区、統一教会本部
行事:韓国宗教協議会七宗教団体指導者訪問
超宗派的、かつ超教派的な韓国宗教協議会を組織したことに対し、心から称賛申し上げる次第です。この宗教協議会を中心として、すべての宗教が新たに心を合わせ、この民族の前に多くの精神的な基盤となってくださるようお願いします。併せて、宗教協議会を創設された皆様が互いに協調するという意味で、世界基督教統一神霊協会を宗教協議会に加えてくださったことに対しても感謝申し上げ、御多忙中にもかかわらず、周囲の難しい環境を退けて、当協会を訪問してくださったことに対して、心から感謝申し上げます。ぜひ宗教協議会を中心として超宗派的な活動を積極的に展開し、現韓国社会において新しい中心の役割を果たせる求心体となり、新しい福地化運動の先鋒に立って、多くの貢献をしてくださることを心からお願いするものです。
神様のみ旨によって創立された統一教会今、私が、御来賓の皆様に一つ申し上げたいことは、なぜ統一教会を創設することになったのかということです。この問題を中心として、簡潔に申し上げたいと思います。私がこの教会を創設するようになった動機は、人意、すなわち人による意志よりも、神意、すなわち神様のみ旨によって出発したということです。
今日のこの社会や歴史は、人意だけで形成されていないことは、皆様がよく御存じのことと思います。ここには必ず、神意を中心とした、ある大きな意志を中心として、一つの目的を指向しているのです。そのような意味で、人の意志だけで教会が創立されては、歴史の流れや今後の新しい世界に貢献できないと考え、神意に立脚して新しい宗教を創設したのです。人意と神意が合わさることができる一つの組織体が宗教であり、宗教は必ず神意を中心として、人類全体が願う人意的なすべてのものを結束しなければなりません。
それでは、神意とは何でしょうか。神様のみ旨というのは、ある特定の社会を中心としたものではなく、超民族的であり、超宗派的であり、超国家的な性格を帯びているものです。そのような目的を中心としなければ、神様が願うみ旨を完結できないことを、私たちは歴史を見ることによって知ることができます。そのような意味で、人意もやはり、ある個人の意志やある団体の意志を中心としたものではなく、神様のみ旨と一致できる世界的な内容を備えたものにならなければなりません。これを内外で統合することに宗教の使命があると思います。
それでは、神意と人意を一致させるためには何がなければなりませんか。神様の愛と人間の愛が合わさることができる内容がなければなりません。神様が人間と一つになれる愛は、ある特定の個人や特定の民族、特定の国家を中心としたものではなく、超国家的な立場で、人類と世界を愛する心情的な紐帯を備えなければならないのです。ですから、神意と人意の一致点を明確にしなければならない宗教は、人意を中心とするのではなく、神意を基盤として、神様を中心とした愛に人間の意志をどのように結束させるかということが問題とならざるを得ません。
そのような意味で、神様のみ旨と人間の意志は宗教という形態を備えて結束させなければなりませんが、その中心は必ず愛でなければならないのです。その愛は、ある特定の民族や特定の国家だけでなく、世界を越え、すべてのものを超越した愛でなければなりません。そうでなければ、真の宗教の基盤を世界的に形成できないというのです。
それで、今までの歴史は聖賢たちを中心として動いてきました。彼らは、人意的な立場だけでなく、天意を介在させた立場で主張した人々です。彼らが目的とするところは、ある特定の民族だけでなく、世界的な限界線を越えていました。それを教えてくれるのが、聖賢たちの道理です。その道理を中心として、天意と人意が一致できる内容を連結させてきたのが宗教です。それで、聖賢は、天倫を基盤として人倫を結束させる基準を立ててきたのです。ところが、これは、あくまでも世界的な限界線を越えることのできる道理であってこそ、聖賢の道理になるのです。そのような聖賢の道理を中心として、今日の人間は道義的な分野で人倫、道徳を立ててきたのです。
神様が願う愛の世界である家庭このような点から見るとき、神様と人間が一つになろうとすれば、その中心位置はどのような位置になるべきか、ということが問題になります。それでは、神様が願う愛と人間が願う理想的な愛が結合できる決定的なその中心はどこかという問題を考えてみるとき、神様がいるとすれば、神様と最も近い位置とならざるを得ません。その神様の愛に接触する基盤は、個人を中心とした愛の基盤ではないので、あくまでも世界と連結される愛の基盤にならなければ、神様の愛と人間の愛が結合できないのです。
そのような意味で、神様の愛と人間の愛が結束できる最も近い位置とはどこでしょうか。神様を中心として人意が従っていく位置、言い換えれば、神様の愛を中心として人間の愛が順応する位置です。そのような神様の愛を中心とした、最も近い位置を追求してみるとき、その位置は、神様の真の息子になる位置にならざるを得ないのです。
そのような神様の真の息子がいるとすれば、その息子を中心として神様の真の娘が必要なはずです。その息子、娘を中心として神様が愛することができる真の家庭、神様が愛することができる真の氏族、神様が愛することができる真の民族、神様が愛することができる真の国家、神様が愛することができる真の世界を追求していかなければならないと考えたので、神様と人間の間に世界的な基準の愛の関係をどのように結束させるかという問題を中心として、今日の統一教会が発足するようになったのです。神様の愛は、必ず歴史過程を経てこそ成し遂げられるのですが、その過程は必ず聖賢たちが主導してきたことを私たちはよく知っています。ですから、聖賢たちは天倫を中心とする神様の教えをもって、今まで人類を導いてきているのです。
それでは、今まで歴史上に生まれては逝った聖賢たちの中で、より偉大な聖賢とは誰でしょうか。もちろん、その経典の教えも重要ですが、それよりもっと重要なことは、神様と人間が最も近くなる道を教えてくれる宗教が必要だというのです。そのような点から見るとき、それを教える宗教はどのような宗教でしょうか。歴史過程において今まで残されてきた宗教を中心として見るとき、他の宗教よりもキリスト教が高次元的な立場で紹介されたのではないかと判断したので、キリスト教を中心とする統一教会を発足させることになったのです。
イエス様を中心として見ても、彼は神様を求めるとき、漠然とした神様よりも、具体的であると同時に生活の中で近くに接することができる神様を求めてきたのです。それで、イエス様は神様に対して「私の父」と言いました。心情的な関係において、父以上の位置はありません。ですから、イエス様は、神様と人間の関係を父子の位置にまで導いて結束させる心情的な基盤を築いたのです。これはすなわち、神様が願う愛で結束した世界を成し遂げるためには、必ず心情的基盤がなければならないことを意味しているのです。その位置は、父子関係以上の位置でなければならないのです。
ですから、イエス様は、「神様は私の父である。私は必ず来なければならないひとり子である。万宇宙の中で神様の愛を最初に受けることができる人は私だけである」という主張をしたのです。このように見るとき、キリスト教がどの宗教よりも神様の心情を中心として具体的な内容を備え、神様と最も近い位置で説破しているというのです。イエス様は「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」という立場で語られました。これは、神様との関係を結束させるときに、どの宗教よりも最も近くなる基点を説破したものです。また、信じて従った信徒たちに、「互いに兄弟である」と言いました。この言葉は、万民は一つの兄弟だという新しい宗教理念なのです。
神様が願う愛の世界は、必ずこのような基準を通らなければならないのです。神様が愛することができる個人、その個人で構成された家庭、その家庭で構成された氏族、その氏族で構成された民族、その民族で構成された国家、そしてその国家を通じて構成されるべき最後の目的地である世界の範囲まで連結させるためには、そのような心情的な基盤を土台としなければ結束させることができないのです。これは、歴史過程に必ず現れなければなりません。
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