今まで、ユダヤ教はキリスト教と怨讐の関係にあります。ここで私たちは、聖書がどのようなものかということを知って、その怨讐関係を越えていかなければなりません。サタン世界において神様のみ旨を成就できる人や家庭や国家をつくるためには、彼らは怨讐国家に送られた情報部員と同様の立場なので、神様は、彼らに情報をあからさまに指示したとすれば、彼らは捕らえられ、みな滅びるようになるのです。
ですから、神様は暗号で指示せざるを得なかったという、その記録が聖書であることを知らなければなりません。アメリカ中央惰報局(CIA)がソ連に情報部員を送るとき、手紙で「このようにしなさい」とあからさまに書いて送るでしょうか。暗号でその指示を送るのです。もしその指示内容をはっきりと教えてしまうならば、情報部員はみな捕まえられ、その命を奪われるでしょう。これと同じように、神様はユダヤ教徒に彼らの任務を暗号で教えてあげ、終わりの日に遣わすメシヤの命を奪われない環境をつくり、教えてあげて、導くべき神様のみ旨があったことを知らなければなりません。
ところが、ユダヤ教徒たちは、暗号で書かれた旧約聖書を解き間違えて、メシヤの命を奪ってしまったということを知らなければなりません。CIAの局長が、その暗号を最もよく知る人物であるのと同様に、旧約聖書の暗号を最も的確に解くことができるのは神様しかいないのです。
そこで、神様のみ旨を成就するためには、必ず神様はあらかじめ教え、時を迎えたあとに再び教えるのです。アモス書第三章七節を見れば、「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります。
しかし、旧約聖書を信じていた人々が、旧約聖書を解き間違えてしまったために、来られたメシヤの命を奪うという歴史的な罪を犯してしまった事実を、私たちはよく知らなければならないのです。その時のユダヤ教の信者たちは、それでもまだよいというのです。洗礼ヨハネをエリヤだと主張するイエス様がなされたことは、当時のユダヤ教徒から見ると尋常でありませんでした。数多く奇跡を行い、歴史始まって以来の新しいみ言を語り、奇異なみ業をたくさん行うのを見たとき、それを否定もできず、かといって肯定もできないので、「さあ、それなら洗礼ヨハネをエリヤだと主張するのだから、彼がエリヤなのかどうか一度尋ねてみよう」といって議論が始まりました。
そのことが、ヨハネによる福音書第一章十九節以下に記されています。洗礼ヨハネに、「あなたはどなたですか。……あなたはエリヤですか。……では、あの預言者ですか」と尋ねたとき、洗礼ヨハネはエリヤであることを否定しました。エリヤ自身ではなくても、また、あの預言者(申命記一八•一八)ではないにしても、洗礼ヨハネは、自分が預言者の中の一人だということを強調しなければならなかったのです。にもかかわらず、それを否定してしまいました。
それはなぜでしょうか。自分のことを預言者の一人であるとイスラエルの人々がせっかく信じているにもかかわらず、なぜ否定したのでしょうか。既にイエス様の言動を不信する状況が起こっており、事態が不利になっていたというのです。やがて国から追われるイエス様であり、教会からも追われる立場にあったイエス様でした。イエス様が語ることを問題視したユダヤ教の指導者やパリサイ人たちが、イエス様を葬り去ろうと話し合っている実情を感じ取っていたというのです。
このように、洗礼ヨハネは、人間中心的な立場にたったために、天を代弁することができず、エリヤではないと言ったのみならず、自分は預言者の中の一人でもないと否認してしまいました。ですから、人々はイエス様の話を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの話を信じるでしょうか。現代のアメリカで言えば、ある若者が出てきて、「ビリー•グラハムはエリヤであり、私は再臨のイエスである」と言えば、それを誰が信じますか。歴史が交錯する中で、同じように、神様が、アダム以降、約四千年間準備してきた摂理歴史の中で、ユダヤ民族を信じ、希望を抱いてそのもとにイエス•キリストを送ったにもかかわらず、ユダヤ民族が無知のために不信してイエス様の命を奪ったという事実を否定できません。
それが事実なのか、そうでないのか、新約の使徒たちを通して一度調べてみましょう。イエス様の十字架後の初代教会のとき、ユダヤ教徒たちやイスラエル民族がイエス様の弟子たちを迫害するとき、その一番の扇動者であり、代表者として立ち上がった人とは誰かというと、使徒パウロでした。ステパノの命を奪うことにも賛同しましたが、他のイエス様の弟子たちの命を奪おうとダマスコに行く途中、天からの光に打たれて悔い改め、イエス様を証した人が使徒パウロです。
使徒パウロは、イエス様がメシヤであったことを誰よりもよく実感したので、使徒行伝第十三章四十六節で、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と堂々と宣布しました。
このようにして、来られた主が、当時のユダヤ民族の不信によって悲しみの十字架の道を行かざるを得なかったことが、どれほど胸の詰まることかを、私たちは考えもせずに、ただ無条件に十字架を信じてきました。本当なら、ユダヤ教徒の不信によって死んではいけないイエス様が死んだにもかかわらず、「死ぬために来た」と信じてきたのです。ですから、どうしてイエス様の前に行けるでしょうか。救いを受けても、行って会う自信がありますか。
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