私が霊界と宗教界に関する問題を中心として苦心してみると、神秘的な世界があることを知るようになりました。神様がいるのか、いないのかというとき、神様は間違いなくいます。最近では、関係の世界が問題になっています。一つの家を見ても、父子の関係、夫婦の関係、兄弟の関係から成っています。それだけでありません。家庭と家庭の関係もあります。いくら自分が立派だったとしても、家庭の関係において脱落してはいけません。自分と家庭の関係、家庭と家庭の関係、氏族と氏族の関係で、中心は何ですか。人間は関係の世界を離れることができないのです。
「家和万事成」という言葉があります。「家和万事成」になろうとすれば、祖父と祖母の関係が理想的でなければなりません。夫婦関係と兄弟関係が理想的でなければなりません。祖父と祖母が自分たちだけで喜び、夫婦同土、あるいは兄弟同士だけで喜んではいけません。祖父と祖母と父母、父母と息子、娘、縦横の前後左右ですべて和合してこそ、「家和」になるのです。「家和」は難しいというのです。なぜですか。私たち個々人の体と心が争っているからです。三十八度線が問題ではなく、世界の戦争が問題ではありません。戦争の動機とは何か、その根本か何力というとき、「私」なのです。
宗教生活は体を主管し、心に従って生きる生活「人」といえば男性と女性がいます。男性と女性は心と体の両面をもっています。宗教を信じるのに、心と体で信じなければならないでしょうか、心でだけ信じなければならないでしょうか。心と体が一つになって信じるのが理想的ですが、それを一つにできなかったとき、神様は先に心を中心として一つになるようにします。主体である心を通して一つにするのです。
心がまっすぐだというのは、垂直を前提に語る言葉です。心を中心として神様と完全に一つになって、体を一つにしなければなりません。これが今日、宗教者が一生をかけて達成すべき課題です。どのようにすれば心が体を支配できるでしょうか。そこには二つの方法があります。神様と共に生きながら、神意を知る立場に立たなければなりません。神様のみ旨を中心として生きなければならないのです。ところが、体がうまく従ってきません。心がプラスなので、体がマイナスになれば、どれほどよいでしょうか。しかし、体もプラスになろうとするというのです。プラスとプラスとになるので、反発するのです。
それでは、どのように一つにしなければならないのでしょうか。根本理想を求め、強力な信仰心で、その変わらない心で絶対的な姿勢を備えて、体を弱体化させなければならないので、苦行をするのです。苦行を好む人がいますか。苦行を好む人が世の中のどこにいるかというのです。千人いても万人いても、すべての人が嫌います。数億の仏教信者がいるならば、その中で苦行を好む人がいるかというのです。
それでは、それを無理やりするところで、理想が実現できますか。それは理論的に矛盾です。喜んで行っても難しいのに、無理に行って完成するというのは矛盾です。宗教生活は体を主管する生活ですが、プラスである心を中心として、体をマイナスにするためのものです。マイナスさえつくっておけば、「一つになれ」と言う必要がありません。体がマイナスに戻ることによって、体と心は一つになるのです。
神様はなぜ体を打たなくてもよいように創造できなかったのかと言いながら、神様を否定する人々がいます。理由は分からなかったとしても、人間が病気になったのは事実です。僧侶たちがいらっしゃいますが、いくら修行に励みながら念仏を覚えても、肉体の欲望を捨てることはできません。その欲望は生きています。どれほど強いか分かりません。精誠を込めて修行に励んでも、うまくいきません。欲望が行こうとする道と、その世界の前進過程は、公式のようなものです。
それでは、宗教を中心として、なぜ体を苦労させなければならないのですか。良心基準に対して体を弱化させることによって、体が心に従うようにするためなのです。体を弱体化させて、およそ三年間引っ張っていきながら、習慣になるようにしなければなりません。それは絶対的に信仰を強調するためです。絶対的にほかのことを考えてはいけないというのです。父と母、兄弟、自分が愛する人、国と世界の雑多なことをすべて捨てて、絶対的な道理を立てて体を修養し、帰一点を見いだすのです。どのような宗教もみな、そのように教えなければなりません。そうでなければ、宗教世界の発展をもたらすことはできません。人格革命をもたらすことはできないのです。
ですから、断食と絶食をし、苦行しながら社会に出ていって迫害を受け、反対を受けなければなりません。修養の目的成就のためには、体が死にそうだといって大騒ぎしても、物ともせずにすべてのことを忘れなければなりません。心に体が順応できる自我を見いだすためのつらい生活が宗教生活です。そうでない人はみな偽者です。普遍的で妥当なこのような観を中心として見るとき、良心と体を一致させるために、経典が教える内容以上の境地にまで体の修行をしようという人が、仏教で言えば真の仏教信者です。またキリスト教で見れば、真のキリスト教信者です。
申し訳ない話ですが、僧侶たちが妻を得て、息子、娘をもったとすれば、家族を率いて心の世界の統一圏を形成するということが、どれほど大変でしょうか。彼らを背負っていくことがどれほど大変でしょうか。そのような問題を簡素化するために、出家するのではないかというのです。
出家して何をするのでしょうか。完全な道の成就、その目的を成就したあとで、男性と女性の修行者が一つにならなければなりません。それで、終わりの日には、今まで教えたすべての修行の時代が終わり、修行者たちも結婚しなければならない時が来るのです。
外的な世の中では、結婚に失敗し、多くの問題が現れています。悪神の巣窟、悪魔の巣窟、サタンの巣窟になっています。神様は、「この滅びる者たち、お前たちは人倫、道徳を中心として背信の道を行くので滅びるだろう。しかし、お前たちを正すために標本が必要だ。僧侶が結婚し、神父や修道女たちが結婚して標本になるべきだ」と語るでしょう。経典を通してこのようなことを解釈できますか。経典にはありません。四大聖人はすべて教主です。宗教の教祖です。その教祖を中心として数千年の歴史を経てきながら、人類を教化させてきました。神様は天運を動かす中心の絶対的神様ですが、教主たちの志が良いので、彼らを立てて教材として使ったのです。ですから、「私たちの教主は神様だ!」と言ってはいけません。教主を「絶対的神様だ」と言うならば、問題が大きいというのです。
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