人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何ですか。その名前はどうでもよいのです。そのお方は私たち人間が描く理想をもったお方です。行ったり来たりしながら、適当なことを考えるお方ではありません。絶対者なので、そのお方が考える理想は絶対的です。どの教主でも、そのお方以上にはなれません。優秀な教主や宗教指導者、世の中を騷然とさせるほどの宗教者がいるとしても、神様を中心としなければなりません。自らを中心とすれば、大変なことになります。それは、人間はあくまでも第一存在ではなく、結果的存在だからです。
第二存在である人間は、どのようにして生まれましたか。私にとって第一存在は父と母です。その父と母の第一存在は祖父と祖母です。このようにさかのぼるのです。祖父と祖母の第一存在は先祖です。先祖の第一存在は第一先祖です。人間の第一先祖の第一存在は神様です。神様がいるとすれば、そこまでさかのぼるのです。
その神様のみ旨とは、どのようなものですか。宗教を立てて個人を救うのですか、家庭を救うのですか、国家、世界、天地を救うのですか。地上と天上に地獄がありますが、救いというものは、天上天下の地獄をなくし、天国をつくろうとするのです。そのようなお方が絶対善なるお方です。
私はこのような問題について非常に悩み、宇宙の根本真理が何かと、談判祈祷を捧げました。そうして、神様を発見しました。「あなたを発見したので、死に物狂いです。根本を教えてください」と談判しました。私は身もだえしながら、神様に「あなたはどのようなお方ですか」と尋ねながら、根本思想を明らかにしたのです。
今日、神様がいるのか、いないのかということが世界的問題です。そこから唯物史観と唯心史観の二元論が生じました。心が先か、体が先かということです。ところが、分かってみると、心も先ではなく、体も先ではありません。体と心が一つにならなかったために、このようなことが広がったのです。民主世界は心を拡大させたものであり、共産世界は体を拡大させたものです。これが互いに争うのです。この争いをどのようにすれば止めることができますか。民主世界と共産世界を一つにすることより、皆様自身の心と体を一つにすることが先決問題です。
このような問題を考えながら、悩んで標語として立てたのが「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」でした。第一標語がこれでした。すべての人、すべての教団が世界と天地を支配しようとしますが、自分自身を主管できずにいるのです。そのように身もだえしながら、十年間さまよい歩きました。涙もたくさん流しました。
自分の家の父母を中心として、絶対的に一つになりなさいと教えるのが孝子の道理です。国を中心として教えるのが忠臣の道です。孝子と忠臣は通じます。それをもう少し拡大して言えば、聖人の道です。皆様が信じている教祖たちは聖人ですか、聖者ですか。イエス様も孔子も釈迦牟尼も、聖人です。
真の信者とは、教主の愛を受けられる人四大宗教において教主の中の教主とは誰ですか。最高の頂上は二人ではありません。山頂に登るときは東西南北の方向から登りますが、山頂は一つです。真の信者はどのような人でしょうか。
仏教の僧侶たちが大勢参加し、高位の僧侶も来られましたが、釈迦が「私たちの高位の僧侶がナンバーワンだ」と言えば、どれほど良いでしょうか。それでは、釈迦が願うこととは何でしょうか。霊界に行ってみれば、お金は必要ありません。知識も必要ありません。そこに行ってみるとそうでした。権力が必要ありません。お金をいくらでも創造でき、ダイヤモンドの星も造ることができる神様です。絶対者であり、知識と権力の大王であられます。春夏秋冬の四季を越えて、永遠に自由自在に行使できるお方です。そのお方に何が必要でしょうか。
仏教信者は釈迦の信任を受ける人ですが、信任されることが第一ですか。違います。結局はどこに行かなければならないのかといえば、外的関係から内的関係に行かなければなりません。誰よりも釈迦の愛を受ける人でなければなりません。皆様は信任される人になりますか、愛される人になりますか。母は子女を絶対的に信じますが、息子だといって絶対的に信じているだけで、じっとしていてはいけません。懐に抱いてお乳を与えながら愛してこそ喜びます。本性がそうなっています。
ですから、教主と信者も、先にお話ししたような関係です。「家和万事成」の関係ですが、その関係をどのようにしてもたなければならないのでしょうか。教理を中心とした関係は立派です。しかし、教理は道を教えるのです。道理を教えるのです。道というものは、行く道を言います。方向を教えるのです。行って何をするのでしょうか。釈迦に会い、イエス様に会って何をしますか。みな教主に会ってみたいと思いますが、出会って何をしますか。イエス様のものを自分のものにし、自分のものがイエス様のものになるとすれば、どれほど良いでしょうか。結局は帰依だというのです。同等な立場に行くことが信者の願いです。
その同等な立場に行こうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。釈迦を中心として父方の叔父の関係が良いでしょうか、母方の叔父の関係が良いでしょうか、僕の関係が良いでしょうか。信者たちに「あなたはどんな関係になることを願うか」と尋ねるとき、「釈迦の息子になり、娘になることを願う」と言うでしょう。それが最高の結論です。息子、娘は相続を受けます。そして、共に住みながら、どこでも一緒に行くことができます。どこでも同参できます。父子の関係において愛を中心とするようになれば、相続を受けることができます。愛の属性の中には相続権があるのです。
男性と女性が互いに愛し合うとき、夫のものは誰のものになりますか。夫のものは妻のものになります。また妻のものは夫のものです。ですから、貯金通帳を二つもって暮らす夫婦がいるとすれば、その夫婦は偽者だということができます。それは荷物をまとめるための準備と同じだというのです。それを正さなければなりません。根を直しておかなければなりません。
釈迦と弟子の関係はそれと同じですが、イエス様に「信者たちに何を望まれますか」と尋ねれば、「私たちの何代の孫よ、僕のように働け」と言うでしょうか。キリスト教の牧師たちは、「神様の僕」と言いながら祈祷を捧げます。なぜそのような祈祷を捧げるのですか。神様のみ前に、僕にしかならなくてよいのですか。僕の上には養子がいて、庶子がいて、直系の息子がいます。僕から三段階を越えてこそ、息子、娘になるので、同じ価値なら息子と言えばよいのに、なぜ僕と言うのでしょうか。
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