そして、人間は一番上に行きたいと思います。何を中心としてそのように思うのですか。お金ではありません。愛を中心としてそのように思うのです。男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためです。ですから、神様は互いに貴いものを入れ替えておきました。女性の愛のふろしきは男性が主人です。男性の愛のふろしきは誰が主人でしょうか。女性が主人です。女性が主人ですが、何の主人ですか。愛の王権です。取るに足らないわらぶきの家に住む夫の妻としてではありません。愛の王権を代表した主人です。そのように考えて結婚式をしてこそ、大地が振動するほど太鼓をたたいて良いと言いながら、ウェディング•マーチを響かせるのです。そうでなければ、真っ暗闇な世の中になって、何をしても興味が湧かないというのです。これは文総裁が、歴史始まって以来初めて語る話です。このような話を聞いたことがありますか。仏教の経典にもありません。
それでは、男性と女性がなぜ結婚するのですか。愛のためです。何の愛かというと、絶対的な真の愛です。父子の関係は誰かが分けることはできず、革命できません。父子の関係は絶対的です。そこに流れる愛も絶対的なのです。その関係が絶対的ならば、母と父も絶対的でなければなりませんか、相対的でなければなりませんか。母と父も絶対的でなければなりません。母と父と息子、娘の関係が絶対的なので、母が離れ、父が離れても、息子、娘は離れることができないというのです。ところが、最近の家庭を見れば、母と父が、子女たちを捨てて離れたりしています。
夫と妻が生きていくにおいても、絶対的な愛がなければなりません。ところが、結婚して一週間もせずに離婚する人たちがいます。それが真の夫婦ですか、偽りの夫婦ですか。それは偽りの夫婦です。愛のために生まれたというときは、気分が良いのです。僧侶たちも、精誠を捧げる生活によってこの国の仏教界の高僧になりましたが、昔の母と父の懐が懐かしく思いませんか。忘れることはできません。それは革命することができないのです。そこを求めて入ろうとする気持ちがあるのです。なぜでしょうか。愛が根源だからです。愛が動機になっているので、愛の動機で流れる過程は、愛の関係をもたなければ連結されないのです。
神様と真の愛、そして永生それでは、神様はいったいどのようなお方ですか。神様は私たちの父です。仏教からは人格神は発見できません。万象の帰一法を論じながら、どのように人格神を発見しますか。内外に情、知、意の感情に通じることのできる神様をどのように発見しますか。愛する孝子をもった父母が、その息子が帰ってくるとき、どのようにするでしょうか。「ああ、私の息子よ!」と言いながら、高僧も教主もみな無視したまま、満面の笑みを浮かべて抱きかかえるのです。
根本に戻ってみましょう。自分のために愛すれば大変なことになります。宇宙はそれを歓迎しません。自分のために生きなさいという愛ならば、大変なことが起こります。
宇宙の根本である神様は絶対的なお方です。創造の根本に入ってみるとき、私が信じる神様は本当に偉大なお方だと思います。その絶対者が信じることのできる絶対的なことは何ですか。神様も絶対的な平和、絶対的な幸福を求めます。
それでは、それをもたらし得るものとは何ですか。お金ですか。お金はいくらでも作ることができます。知識ですか。神様は知識の大王です。権力ですか。神様は全知全能です。それでは、何でしょうか。愛です。真の愛だというのです。絶対的な神様にとっても、愛は絶対的です。
神様にいくら力があっても、真の愛の息子、娘に会えば、「私のものをすべて与える」と言うのです。真の夫は真の妻に「私のものをすべて与える」と言います。「私のものは私のものだ」と言えば、真の愛ではありません。完全に改心して与え合わなければなりません。神様が天地を創造するようになったのも、そのような理由からです。
キリスト教の牧師たちは、「創造主は神聖であり、被造物は卑しい」と言います。しかし、分からないからそのように言うのです。そのような話は、愛の神様という論法を取り消す結果を生み出すのです。神様の愛もイエス様の愛も、愛という言葉は相対性を離れては成立しません。神様の相手は誰でしょうか。「万物之衆唯人最貴(マンムルチチョンユインチェキ)」(万物の中で人が最も貴いの意)という言葉があります。正しい言葉です。神様がなぜ天地を創造しましたか。愛のためです。神様御自身がその理想的な愛を立てる道は投入です。完全な投入です。一〇〇パーセント以上、一二〇パーセント投入です。ですから、真の愛をもって生きる人は、いくら迫害を受けても一二〇パーセント、何百パーセント以上投入できる本性の起源と連結されているので、支配を受けません。
独裁者がその時代を破綻させてしまい、すべてを無に解消させたとしても、世界は再現されます。母と父がいくら老いても、愛を再現させるのと同じです。独裁者が抑圧しても、歴史を超越して再現され、権威を堂々と立てるのです。ですから、宗教世界の教主たちはその時代に迫害を受けるのです。しかし、投入したものは、取り戻される環境になれば、その時代以後には実を結ぶのです。
神様は人格神なので、体と心があるのかというとき、あるというのです。神様も愛があるのかというと、あるというのです。生命があるのかというと、生命があり、血統があるのかというと、血統があるというのです。このすべてのものは、自分一人では成り立ちません。相対がいなければなりません。神様は縦的なので、縦的な基準を中心として連結しようとするのです。縦的な立場である子女の立場で大きくなって夫婦になるのです。そして、世界までみな知るようになります。そうして、一つになるのです。どこに行って一つになるのでしょうか。縦的な立場です。その中に息子、娘がいて、神様が入ってきているのです。
円には弦がありますが、アダムとエバは、上弦と下弦を縮小したものになって、扇のような一つの連体になります。骨と肉のようになるというのです。それで、「父なる神」という言葉は、血統関係でなければ成立しません。神様が誰かというと、私たちの父です。真の愛を中心とした縦的な父です。アダムとエバが堕落しないで完成したとすれば、そこに神様が臨在します。アダムとエバが結婚して、夫婦として横的に一つになれば、縦的な神様が降りてきます。降りてくる力の運動が起こるのです。すべてのものは、球形を中心として作用することで、存在するようになっています。ですから、皆様の体と心は誰に似たかというと、神様に似たというのです。
それでは、神様の心と体は、堕落した人間のように争いますか。争いません。それでは、なぜ人間は争うのですか。故障したというのです。事故が起きたというのです。これをキリスト教では堕落といいます。何の故障ですか。腕を一つ切断されても生きます。脚が切断されても生きられます。神様か最も嫌うことは、愛の秩序を破壊することです。アダムとエバが堕落したのち、下半身を隠しました。これが問題です。縦的な真の愛の父、そのお方が創造主ですが、人間が堕落しなかったなら、縦的な位置は九〇度です。男性と女性も、真の愛に通じる道は直短距離です。天地が通じる真の愛の道は直短距離なので、垂直の前に九〇度にならざるを得ないというのです。球形の一番高いところはどこかというと、その中心です。
皆様は、あらゆる存在の中心存在になりたいと思います。なぜでしょうか。そこに行ってこそ、神様の愛に接することができるからです。神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。神様が私のものになり、神様が所有されたすべてのものも、私のものになります。男性と女性が結婚するのは何のためですか。愛のためです。愛して、何をしようというのですか。中央に行って神様と愛の関係を結ぶことによって、神様を私のものにし、神様の愛を私のものにし、神様の所有を私のものにしようというのです。愛を中心として相続権が連結されるのです。その次には、同居権、永遠に共に暮らすことができるのです。
ですから、真の愛が動くところに永生があるという論理を立てることができます。永生がどこにありますか。息を永遠に吸い込んでもよく、永遠に息を吐いても幸せだというのです。そのような愛を中心として呼吸する世界に、真の愛の永生があるのです。そのような父母を通して愛を受け継いだ「私」です。ですから、男性も女性も、愛をもっていない人はいません。男性も女性も父母の血肉を受け継ぎ、父母の生命を受け継いだので、みな愛をもっていて、生命と血統をもっているというのです。
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