心とは何ですか。縦的な神様の愛と血統を通して受け継いだ、内的な「私」です。内的な私は、縦的な私です。それでは、体とは何ですか。堕落しなかったなら、本然の根本理想を受け継いだ私は、九〇度に立つようになります。堕落しなかった真の父母の愛と生命と血統を受け継いで生まれれば、体と心が一つになった人になるのです。一つは心的な内的神様を中心とした人格、もう一つは体的な外的父母を中心とした人格です。そこにおいて、その二つは、愛を中心として生命と血統を中心とした男性と女性の混合的な統一圏を形成します。ですから、神様に似たものが心なので、心は内的な私だというのです。
宇宙の秘密が何であるかと祈祷してみると、答えは簡単でした。父子の関係だというのです。父子の関係が、ただ形だけの父子の関係ならば、堕落した世の中にもあります。父が子女を売り、子女が父の命を奪う世の中です。
堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。ローマが滅びたのはどうしてですか。外敵の侵略によって滅びたのではありません。淫乱のためでした。悪魔が淫乱で悪をばらまいたので、人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです。
教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです。誰がそのようにしますか。そのようにしたのは人間ではありません。国ではありません。神様が嫌うので、そのようになったのです。今まで救援してきた神様は、理想的な神様ではありません。堕落がなかったなら教主を教育し、導かなければならない神様ではないのです。ですから、真の宗教を求めなければなりません。宗教において求めるのは本当の神様です。
神様は何をもって生きたいかというと、愛を中心として生きたいというのです。答えがそれです。何の愛でしょうか。神様と同様に心と体が九〇度で一つになり、完全に一つになった愛です。何が神様の心を統一させることができますか。真の愛です。それでは、真の愛とは何ですか。完全に犠牲になり、一〇〇パーセント投入しては忘れる愛です。そうでないとすれば、神様は今まで、人類が歴史時代に誤ったものを見て、耐えることができたでしょうか。世の中の人であれば、みな抹殺してしまったでしょう。
真の愛は堕落した世界に一つだけ残っています。縦的な基準だけが残っています。それは、父母が子女を愛する愛です。神様の代身の立場で、それだけが地に残っているというのです。ですから、救援摂理も可能です。幸福がどこにありますか。皆様の心にあるのです。神様御自身も何を中心として生きたいと思うでしょうか。真の愛を中心として生きたいと思うのです。真の愛をもった男性と女性と、共に生きたいと思うのです。父母は子女たちを共に抱きたいと思います。神様は、真の愛をもった息子、娘をこの地でかき抱いて生きたいと思うのです。
神様の人間救援の目的仏教の僧侶たちが、「文総裁は釈迦より偉いと言っている」と言って、大騒ぎしました。「イエス様より偉い、孔子より偉い、誰よりも偉いと言っている」と言って、宗教者たちが大騒ぎしているのです。一生涯において、教主の中で私ほど働いた人がどこにいますか。私は世界中の国々から反対を受けても、基盤を築き上げました。一代を中心として見るとき、私ほど仕事をした人がいません。それを人間の力で行ったとすれば、既に死んで久しかったでしょう。私利私欲のために働いたなら、そうなったでしょう。善の道である統一教会の行路は、愛を通した理想を中心として行く道です。個人的愛観、家庭的愛観ではありません。統一教会の愛観は垂直です。垂直的愛観をもって、思想的観を変えなければなりません。垂直的観を備えた水平の愛です。これが分かるので、民族を超越し、人種を超越するのです。
統一教会の信者たちは、日本人もアメリカ人も、「あなたは黒人と結婚しなさい!」と言えば、喜んで結婚します。なぜでしょうか。何千年前に失った兄弟を取り戻すことだからです。知ってみれば、彼らは私の兄弟です。顔が黒いためにどれほど苦労したのかと言いながら、抱きかかえて泣きます。そのように痛哭から始まります。その痛哭を忘れることはできません。何がそのようにするのでしょうか。真の愛です。統一教会はそうです。私は賢い人です。世界の優れた人に会い、理論的に論じてすべて信頼を勝ち取った人です。ですから、世界の宗教指導者たちは私のことを好みます。
理論に合わない教理は、二十一世紀に必要ありません。理論に合わず、現実生活に利益をもたらすことのできない宗教は、必要ないというのです。統一教会の信者たちはそうです。無邪気に見えますが、むやみに見過ごしません。神様だけでなく、神様の心情を論じます。
神様は世界の救援が目的なので、家庭を犠牲にさせても神様の民族を取り戻そうとします。国家を犠牲にさせても世界を救おうとします。この地上の世界を犠牲にさせて、万代の霊界に行ったすべての霊人たちを解放しようとします。そして、最後には神様御自身が解放されなければならないというのです。
私はそれを知ったので、十字架を背負うのです。「世界の宗教界において、分かった人が十字架を背負うべきだ」と言いながら、四十年の年月を風霜に苦しんだ男が、ここに立っているこの人です。その気迫を見れば、天地を塞いで余りある気迫です。私は神様のみ旨を知るようになったときから、統一教会を犠牲にさせてでも、万教を犠牲にさせてでも、世界救援をしなければなければならないと唱えたのです。ですから、統一教会に使う予算より何百倍も多くのお金を投入して、超教派運動、宗教連合運動をしています。そして、世界舞台では宗教財団をつくって、莫大な資源を投入しています。統一教会の人々は心血を注ぎ、その仕事をしているのです。
世界のために投入します。神様のように投入すれば、蘇生の春の日、歓喜の愛の理想を中心として踊りを踊ることのできる、本然の理想世界が訪れることを知っているからです。このことのためには、十字架を東で背負おうと、西で背負おうと、家で背負おうと、必ず人類のために誰かが背負わなければならないというのです。そのようにしなければ、くぼみにたまった腐った水はきれいになりません。このような思想をもって生きる人たちが、統一教会の人々です。
興亡盛衰の道は、ために生きることから分かれます。自然科学の力学で入力と出力を見れば、いつも入力が出力よりも大きいのです。しかし、愛の世界では入力よりも出力が大きくなります。愛があることによって、壊れていく世の中で均衡を取ることができるのです。ために生きて犠牲になる基盤と、ために生きて、さらにために生きたいという心をもつ真の愛の伝統を受け継ぐところでのみ、この世の中を収拾することができます。それが天理です。ために生きる道は、孝子の愛の道です。忠臣の愛の道、聖人の愛の道です。聖人の愛は人類のための愛です。聖子は天地を愛し、天の王宮法まで守ることができます。神様まで心情的に侍ることができるのです。そのような縦的な立場をつかまなければなりません。
聖子の道理と神様の愛の道理を学ばなければ、万教の平和の基準を見いだすことができません。これこそ宗教協議会が到達すべき目的地ではないかと申し上げつつ、これで終わりたいと思います。ありがとうこざいました。
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