全世界的に今、問題は、私的にも公的にも、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということです。これをはっきりさせなければなりません。
例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目が先に生じます。その目は、物質それ自体です。その目が生まれる前に、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。その目という物質肉体は知りませんでしたが、生まれるときは、先に知った立場で、太陽を見ることができるように生まれたのです。知った上で生まれたというのです。
空気があることを、その目自体は知りませんが、既に空気の中にはほこりが飛ぶことを知っていて、目をカバーするまつ毛が準備されていることが分かります。そして、目自体は知りませんが、あらかじめ涙を蒸発させる輻射熱があることを知り、目に涙腺を置いて防備するようにしたのです。本来の物質自体は知りませんでしたが、生じる前にそのような事実を知った上で生まれたというのです。結論として、私たちはこのことから、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論について論争する問題を解決できるというのです。ですから、確かに神様によって創造されたということを否定できません。そのため、本然の神様の創造理想世界に帰り、神様が願う家庭と私と世界をはっきりと知らなければならないのです。
私たちの体と心を見れば、体は地獄の基地になっており、良心は天の国の基地になっているという、この二つの世界の分岐点をもっている人間であることが分かりませんでした。このような立場に立っている私たち自身を見ると、体が心を引っ張り回しているというのです。歴史を通じて、体が心を自由自在に引っ張ってきたというのです。もし良心が強くなれば、自然と天に帰っていくので、世界は既に天のみ前に立つことができたはずだというのです。
またこの良心よりも、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力よりも強かったということです。神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦を行わざるを得ないのです。このように、歴史的に天が働くその救援的な役割をもたせて立てたのが、宗教だというのです。
宗教の目的神様は、異なる文化的背景に従って多くの宗教を全世界に立てたのですが、心を引っ張り回す体を弱め、その力を取り除くことが宗教の目的であることを、今まで宗教を信じる信仰者は知らずにいたのです。堕落がなかったならば、宗教は必要ありません。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったというのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか。心を引っ張り回すこの体を追い詰めようというのです。
皆様は、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として一つになった子女が入るようになっています。天国に入れるアダムとエバの家庭は、神様の子女として、血族であり、神様の愛を中心とした家庭とならざるを得ないのです。そのような家庭が人る所が天国であることを、今まで誰も知りませんでした。ですから、良心の力を強化するために、この体を打たなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落していない本然の神様の愛の懐に帰らなければならないというのです。
それでは、宗教がしなければならないこととは何でしょうか。体が最も嫌がることを提示することです。体が嫌がる「断食をしなさい」、「奉仕をしなさい」、「犠牲になりなさい」ということを言うのです。それだけではなく、最後には「祭物になりなさい!」と言います。祭物は血を流すようになっています。生命を懸けることができなければならないというのです。ですから、聖書で「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七.三三)という逆説的な論理を教えてくれたのも、肉身が生きるままに行けば地獄に行くのであり、肉身を抑制して良心の解放圏を形成すれば天国に行くという意味です。私たちの体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限の欲望と無限の希望をもつようになっているのです。
今日、歴史時代において数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者がいましたが、その宗教指導者と宗教を信じる人々は、体を完全に占領して無の状態に立ち、良心を中心として本然的基準で天と相対できる立場に立った、解放された人間になれませんでした。
私たち人間は、堕落することによって偽りの愛の根を中心として野生のオリーブの木になってしまいました。神様の真の愛を中心として根を打ち込むべき人間が、悪魔の愛を中心として根を打ち込んだために、野生のオリーブの木になったという事実を、どのように清算すべきでしょうか。これは現在、生きている私たち人類が解決すべき、重大な宿命的課題として残っているのです。
皆様自身を中心として見るとき、皆様の良心は、皆様のあらゆることについて、知らないことがありません。良心は私にとって、父母よりもさらに近い位置に存在することにより、永遠の愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母とは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら、永遠に神様の子女として解放しようとするのです。それが良心作用なのです。
良心の願いは絶対的中心者を占領すること良心の世界には、師は必要ありません。ある国の教育を担当する大臣が、「良心を教育しよう」と宣布したという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行くとすれば、私が一生の間、行くべき道をはっきりと知って、間違いなく神様の懐に帰っていけるようにすべて教えてくれ、導いてくれるということです。皆様が良心を中心として見るとき、良心が自分の一生のあらゆることを知っているのと同じように、霊界に行けば、地上で行ったすべての事実がはっきりと分かるようになっているのです。傷のない子女、すなわち永遠な神様の真の息子、娘になるように働き掛けるのが私の良心の作用であることを、今まで知らなかったのです。
霊界に行かない自信のある人はいますか。いずれにせよ、誰もが行くのです。皆様が霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになっていて、皆様の一生だけでなく、数千代の先祖も一瞬にして分かるのです。そこは時空を超越した世界なので、良心に背く内容を残してはならないのです。そのため、良心は師よりも優っているという事実を知らなければなりません。
ここには著名な方々と教授が来ていると思いますが、皆様は良心以上に教えてあげられる内容をもっていません。皆様の良心は、航海する船におけるコンパスと同じ役割をしています。皆様の中には、年を取った方々と若い方々がいらっしゃいますが、結婚するとき、相手が自分よりも劣ることを願う人はいますか。いません。また、「愛する相手が自分より十倍優れていることを願うか、百倍優れていることを願うか」と尋ねるならば、ためらうことなく「百倍!」と答えるのです。可能であれば、千倍、万倍、億万倍、もっと優れていることを願うのです。
その時に、良心の願いは最高の愛であり、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖も、私たちの子孫も同じです。このような質問を神様にしてみても、同じ答えが返ってくるでしょう。
皆様。欲心と欲望をすべてかなえようとするとき、ブラジルの上院讓員は国家のために大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界のために貢献する一番高い、立場に立ちたいと思うのが、良心に基づく欲望です。歴史始まって以来、今まですべての人々が、「良心の願いは達成できない、不可能である」という結論を下しています。しかし、ここに立っているレバレンド•ムーンは「可能である」という結論を下しているのです。
皆様の良心のふろしきはどれほど大きいでしょうか。良心の大きさはどれくらいでしょうか。良心が神様を占領したというとき、それで終わると思いますか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いでしょうか。それとも、そこまでは願わないでしょうか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いなのです。それでは、良心の願いはいったい何をしようというのでしょうか。宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、それ以上に大きなものかあってもまた占領しようとするのです。良心はそれほど大きなふろしきだというのです。
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