このように、宇宙においてその核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東は男性を象徴し、西は女性を象徴するので、女性は結婚することにより、どこでも夫の位置に従っていくのです。西が太陽の光を浴びて輝くとき、東と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として役事(働き)するとき、弟たちが協助するようになるのです。ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点でなければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が違ってはいけません。この中心点が狂えば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。
ですから結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで、すべて合わせて七数を形成するようになるのです。このように、七数を形成するということはすなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つになり、これらすべてが完全に球形となり、調和と統一を形成する家庭になるということです。私たちがよく「ラッキーセブン」と言うのも、このような観点から見れば、一理あることなのです。そうして、これが一つに定着して回るようになれば、八数だというのです。
真の愛が永遠に変わらない限り、この中心も変わらず、永遠に回ることができたのですが、堕落することによって神様を中心から追い出してしまったというのです。神様の真の愛をすべて追い出してしまったので、真の家庭理想がすべて崩れてしまったのです。
西洋と東洋は、その生活習慣においてあまりにも異なる点がたくさんあります。多くの面で正反対です。例えば、韓国で人を呼ぶときは、手のひらを下にして手招きをしますが、西洋の人に対してそのようにすると、かえってもっと遠くに行ってしまいます。「私のことが嫌いで行ってしまうのだろうか」と誤解するようになっているのです。西洋の文字は横的で、左側から右側に進みますが、東洋の文字は縦的で、本来、上から下に書いて読むのです。ですから、西洋の本は左側から開いて見ますが、東洋の本は右側から開いて見るのです。西洋文明は一種の横的文明です。握手で挨拶するのは、横的な挨拶です。頭を下げながら挨拶する東洋文明は縦的です。
東洋には、家庭制度の核が先祖にならなければならないという伝統がありますが、西洋ではそのような核が強くありません。先祖を核とする概念がないのです。自己中心です。すべてのものが核から連結されるので、核が動かなければすべて動きません。ですから、中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、すべて同等です。それを分ければ十二切れになりますが、その十二切れをどこに合わせても、すべて合うというのです。
祖父が願えば孫は反対せず、息子、娘もそれを願うようになり、三代がみな、一緒に願うのです。祖父、祖母、夫婦、息子、娘、すべて中心に合わせるようになるのです。この愛を中心として見るとき、父子の関係も一つなので一体であると言い、夫婦関係も一体であると言い、兄弟間も一体であると言うのです。一つの体です。
何を中心としてこのような関係が一体なのかというと、愛の中心である神様の真の愛を中心として一体になるのです。真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一つの体になり、兄弟間も同じなのです。このようになることにより、すべてのものの価値が同等になるのです。
人間が行くべき真の真理の道それでは、神様がその子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさん稼いだ億万長者になることでしょうか。国の最高権力を手にした大統領になることでしょうか。神様が息子、娘であるアダムとエバに願われたのは、彼らが成長して孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。それでは、皆様は神様が願われるように、家庭で孝子になろうという考え、国では忠臣になろうという考え、世界では聖人になろうという考え、そして天地の前に聖子になろうという考えをもったことがありますか。歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきたのです。
今晩、皆様はこのような理想的な人間、すなわち人間のその人格完成に必要なものが、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理であるという観点から見るとき、ここに合格したと見ることができますか。このような内容を知らなければ、家庭で真の父母の役割を果たせません。真の父母であれば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的な内容を教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちに神様まで行くべきだということを、自分の子女たちに教えてあげなければならないのです。そのように教える人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、真の父母、真の師、そして真の主人であると考えるのです。
皆様に真の父母の資格があり、真の師の資格があるというときには、真の主人の資格も備えるようになり、さらには真の王になれる資格まで備えるようになります。堕落した人間に、真の孝子という概念があるでしょうか。忠臣の概念もありません。聖人の概念もありません。聖子という概念もないのです。ですから滅びるのです。誰が聖子になることを願うのでしょうか。神様が願われるのです。聖人になることを誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うのかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願います。これが正に、真の真理の道です。
愛を中心としたこのような真理は、一つの方向で永遠に持続するのです。そのことを知りませんでした。それで、真の父母になれなかったのです。国の真の主人になれませんでした。聖人や真の聖子になれなかったのです。イエス様がこの地上に来られたとき、家庭にそのような真の主人がおらず、国と世界にそのような真の主人がおらず、結局、天地に真の主人がいなかったのです。どのようにしてその道理の道を行くのかを知らなかったのです。しかし、もはや知らなければなりません。
真の父母は、「孝子になったから、忠臣にはなるな」とは言いません。真の父母はその孝子に、「お前は家庭を犠牲にして、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たし、世界のために生きなければならない。また、世界を犠牲にして天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を訪ねていかなければならない」と教えてあげなければならないのです。
そのようになるためには、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければならないのです。聖人は、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は世界を犠牲にして、天の国と地、地上天国を築かなければならないのです。
ですから、すべての父母の中で、より子女のために生きる父母が真の父母であり、どのような師よりも、よりために生きる師が真の師であり、どのような大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうという大統領が真なのです。このような概念があることを知りませんでした。投入して犠牲になるのです。そのようにしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に訪れません。
Create your
podcast in
minutes
It is Free