神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。真の愛と直結した永生
そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。永生しなければならない理由
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。
真の愛と直結した永生そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。
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