皆様が神様の愛を一度調べてみてください。神様の愛をどのように表現できるでしょうか。それはまるで、暖かい春の日に、空には白い雲がふわふわと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ちのぼり、虫が飛び回って、ありも世の中を見物しようとちょろちょろと巣を出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりには猫柳の花が芽吹き、蛙は春の日の新しい歌を歌い、群れをなして飛んでくる蜂や蝶を見て喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境に酔って、まどろみそうで、気分が良くていつまでもこうしていたいと言える、そのような味だというのです。
神様が探し求められる理想相対を中心として感じる気分は、このように蝶が飛び、蜜蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これを考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それが分からないでしょう。気分が良いというのです。懐かしい人に会えば、手を強く握って握手します。懐かしければ、手を強く握るのです。そのように喜んでつかめば、手がほどけないというのです。女性たちは、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば、気分がどうか一度考えてみてください。良いでしょうか、悪いでしょうか。人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中に羨ましいことなどないのです。ずっと夫の横にぴったりとくっついて暮らすのです。
愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。一つになるというのです。男性と女性がカップルになって愛し合えば、ぴったりくっついてしまいます。そのようにして理想の心情まで行くというのです。それが正に、神様の愛です。そのような愛をもって暮らせば、一つになるようになっています。
男性と女性が愛し合うようになれば、ありとあらゆることがすべて起こります。神様を訪ねていける道を知り、神様の愛を本当に味わえば、どうなるでしょうか。神様の愛は、世の中のどのようなものとも比較できません。そのような愛を味わった人がいれば、どのような苦難もその人を占領できず、どのような悲しみもその人を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるはずです。これを探し出すことが問題です。
神様の愛は、大きく三大愛として現れます。それは父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この三大愛が一つに一致する中心が、神様の愛です。
愛と喜びの相続のための神様の祝福神様にとって、一番の栄光の新しい朝は、肉身をまとえるときです。そして、愛することのできる人(夫婦)をもつときであり、その次には、孫を愛せるときです。息子、娘より、孫を愛せるときがさらに栄光のときです。ところで、神様がアダムを造ってどれほどうれしかったかということを、どのように教えてあげたのでしょうか。「いやあ!私はこんなにうれしかった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子、娘を生むことによって教えてあげられるのです。人は幼いとき、父母の愛がどのようなものか分かりませんが、のちに家庭を築いて赤ん坊ができれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるのです。「私の父母が、私を育てるとき、このように愛してくれたのだな」ということが分かるようになっています。ですから、子女が配偶者を得る日は栄光の日であり、その息子が子女を目にする日が栄光の日なのです。
神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ることができなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ることができなければなりません。子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令するだけではなく、侍ってみることもできなければならないのです。理解することもできなければなりません。それでこそ、神様の愛を理解できるのです。子女がいなければ、未完成状態です。神様の愛が分かりません。神様が子女としての人間を、どれほど愛したか分かりません。また、夫になってみなければ妻が分からず、妻になってみなければ夫が分かりません。子女も父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分からないのです。ですから、息子、娘がいなければ、真の父母になれないのです。
父母が子女の結婚を願うのは、子女に父母の愛をすべて相続させ、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、子孫にその実体を残しておきます。ですから、子孫が必要なのです。愛は永遠に続くのです。愛は人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げて相続しようとします。その愛を残しておくことにより、霊界でも堂々と神様のみ前に出ていけるのです。そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くというのは、すなわち、愛の一体圏が形成されるということです。
人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべてのものを整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そのようにしてこそ、再び春を迎えるようになるとき、またこれが植えることのできる種になるのです。これは何の話かと言えば、これから皆様は父母となり、皆様のような息子、娘を生まなければならないということです。
皆様の息子、娘を、皆様のように育てなければならないというのです。
皆様は、息子、娘がいなければなぜ寂しいのでしょうか。それは、循環の回路が途切れるからです。鳥が雛に餌をあげるのを見れば、母鳥のこの上ない愛を知ることができます。東洋では、大人に対しては礼儀正しく敬い、息子、娘にはこの上ない愛を惜しみません。息子、娘を生んで育ててみることによって、父母が子女をどれほど愛したのかを悟るようになるのです。人間は誰でも、結婚したのちに子女を生んで育ててみなければなりません。そのようにしてこそ、子女の愛と父母の愛を所有できるのです。
息子、娘を生んで育てることを忌避する人が多くいます。自分たちが結婚し、離婚するときに息子、娘が妨げになると考えているので、子女をもつことをはばかるのです。しかし人間は、生まれて四位基台を造成しなければ、神様が人間を愛する心情を知ることができないので、天国に行けないのです。
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