人間は、愛によって生まれ、父母の愛の中で成長し、横的に愛を広げていきながら成熟するようになります。横的な愛は、異性の相対に出会って一つの段階を完成するのですが、天地の愛を代表できる基準に入れば、その結実として子女をもつのです。子女は、核心的な心情の位置で生じた愛の結果として生まれます。男性と女性が心情的な愛を与え合うことで生まれた息子、娘は、愛の核心に通じる道をつくってくれるのですが、そのセンターを通っていけば、正に神様と出会うのです。
人間は、愛の結実として子女をもつことによって、神様が万物を創造し、人間を創造された愛を体恤するようになります。また、父母の愛によって生まれて受けた愛を、子女を愛してみることによって、父母の心情を体恤するのです。父母が子女に注いできた愛は、物質的な愛ではなく、本質的な愛です。天地が変わっても、歴史が変わっても変わらないのが、父母が子女に与える愛です。父母になって子女を愛することにより、神様が人間をどのように愛してこられたのかを推し量るようになり、体験を通して確認するのです。父母になり、子女を愛することによって、父母が私をどのように愛し、どれほど愛したのかを感じ、悟るようになります。そうして、老いた父母をさらに敬い、愛によって孝行の道理を果たすようになるのです。そうできなければ、父母の資格がないだけでなく、子女に対する愛も、偽善であると言わざるを得ないのです。
人間は、父母になって子女を愛してみることによって、神様が人間をどれほど愛してこられたのかを感じ、悟らなければなりません。また、神様をより一層、心から愛さなければなりません。子女よりも、老いた父母をもっと愛するべきであり、老いた父母よりも、神様をもっと愛さなければならないのが愛の秩序であり、法度であることを知らなければなりません。
人間は生まれるとき、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら、幼い時期を成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると父母の愛だけでは足りなくなり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら成熟していきます。特に思春期に入ると異性間の愛を切に求めるようになりますが、異性間の愛によって、総合的な愛の圏に入るようになり、初めて愛のセンターを訪ねていけるようになるのです。
天地は球形の世界なので、横的な愛を分かち合い、回転しながら円形を一次的に形成するようになります。特に、異性を相対者として選んで愛を与え合うとき、その結実として子女が生まれて父母になるのですが、このとき、互いが相互間において愛を与え合って回転すれば、横的な愛に続いて縦的な愛も完成するようになり、球形世界を形成すると同時に愛のセンターを探し出すようになるのです。愛の運動を通して生じた愛のセンターは、すべての被造世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛のセンターを中心に運動を続けているからです。愛のセンターは、運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じるセンターは、正にその場に神様がいらっしゃる所でもあります。ですから、世の中に存在するすべての被造物は、神様の愛によって創造され、存在し、神様の愛のセンターを訪ねていくのです。神様は、正に愛の溶鉱炉です。
三時代を生きる人生路程人間は、母親のおなかの中で過ごしてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間は、世の中に生まれる前に母親のおなかの中で十ヵ月を過ごします。おなかの中にいるとき、幼い胎児の自由には限界があります。胎児は、母親の栄養をへその緒を通して受け取って成長しながら、両手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりすぼめたりし、両足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児にとっては母親のおなかの中が自由天地であり、生の全領域なのです。その胎児は十ヵ月目に世の中に生まれて育っていきますが、それ以後の世界が、今日、私たちの暮らしている現在の地上世界であり、人間社会なのです。
人は愛のために生まれました。ですから、真の父母の愛に根を下ろし、母親と父親の保護と愛の懐である腹中で育ってから生まれ、二十歳までは分別もなく、寝床が湿っていても乾いていても父母から責められることもなく、汚い物でもそれを忘れて、すべて喜んで消化できる愛の中で育ち、そして愛の相対者に出会い、互いのために生きる天理の愛に接ぎ木しなければなりません。そのような一生の過程を通過しながら、神様の愛がどのようなものかを体験してこそ、神様の対象愛の実体圏が完成するので、息子、娘を生んで、愛するようにさせるのです。
この世に生まれた人間は、胎児のときの母親のおなかの中にたとえられる宇宙で生きています。一言で言えば、宇宙という母親の懐の中で、人間の百年の生涯を生きているのです。胎児が、母親のおなかの外の人間の世界を知らなかったように、今日、地上世界で生きている人間は、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいます。ただ、母親のおなかの中の胎児が地上世界の存在について分からなかったのと同じように、自分たちが分からないだけで死後の世界もあるかもしれないという、漠然とした心証をもつだけです。しかしはっきりとしていることは、人間の死後の世界に関する心証的な証言に関わりなく、霊界は確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知できる五官作用の外にあるので、宗教を通した信仰をもって、不信を克服しなければなりません。
人間の人生には三時代があります。動物界にも水中時代があり、陸地時代があり、空中時代があります。すべてのものがこの三時代を経なければなりません。人も同じです。万物の霊長として、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どのような存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸地時代があって、どのような動物よりも最高の資格をもった存在でなければなりません。その次には空中時代がなければなりません。ところが人には、翼がないのです。
翼がないのにどのようにして飛べますか。飛び回るどのような鳥よりも、どのような昆虫よりも、高く飛び、遠くにも飛べなければならないというのです。そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。それは、実体である肉身をもってしてはできません。いくら飛び跳ねてみても、飛ぶことはできません。しかし、人は万物の霊長であり、神様が霊的な存在なので、主管権をもとうとしたり、相対的立場に立とうとしたりすれば、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。電気や光で言えば、光の速度は一秒間に三十万キロメートル進みます。しかし、それよりもっと速く移動できるのが人の霊人体です。
私たちはこの世に住んでいますが、この世だけがあるのではなく、霊界があります。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って暮らすべき所はどこでしょうか。霊界です。霊界は、愛の空気が満ちあふれた永遠の世界です。ですから私たちの一生は、永遠の世界に入るために準備する期間なのです。
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