男性と女性が愛し合っても、それが、神様の立てようとしたみ旨と一致するか、また神様が人間に願ったその基準に一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、神様がお考えになるモデル的な愛と一致するかということです。神様を中心として、最初の男性と女性が愛によって一つになっていたならば、それは、愛を中心とした宇宙のモデルになったでしょう。神様も人間に、そのような愛を願われたのです。男性と女性も同じように、互いに相手に対してそのような愛を願ったでしょう。そのような真の愛は、宇宙の核にならざるを得ません。一つの標準型になるのです。
神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとする力です。男性と女性が互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性を、女性は男性を通してのみ、神様を所有できるからです。なぜなら、男性と女性が愛によって一つになった場に、神様が臨在されるからです。
二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳ある価値を賛美すると同時に、神様の貴い価値をさらに賛美できる人にならなければなりません。
男性の心の中には、神様が愛される女性がいて、彼の対象である女性の心の中にも、神様が愛される男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれ、あらゆる万物も互いに喜ぶようになるでしょう。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値となるのです。男性と女性が互いに喜んで抱擁するそれ自体が、宇宙が一体になる場となります。神様の理想の中で形成される創造本然の姿は、そのようなものです。
本来、男性は自分が喜べる女性を迎え、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、その限界を超えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥は彼らのために歌を歌い、蝶は喜びながらひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人も喜び、あらゆる万物も喜ぶのです。このような立場に立って、人間の先祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたでしょう。
男性と女性が生まれた理由本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。女性のために生まれたことを否定できません。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できなければ、問題が生じるのです。これを、天地創造の大主宰であられる神様が創造の原則としたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界に入っていけないというのです。
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれました。これが最高の真理です。この原則に従って祝福圏を訪ねていかなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。
男性と女性は、生理的に反対です。一般的に女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また、女性は主に家の中にとどまっていますが、男性はあちこち、世の中を歩き回るのです。このように性格が反対です。それでは、このような主体的な男性と相対的な女性が、何を中心として一つになるのでしょうか。愛を中心として一つになるのです。人間と神様を一つにさせるのも愛です。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。男性がもっている器官と女性がもっている器官は、互いに異なります。それを誰のためにもっているのでしょうか。それは、自分のために生じたのではありません。男性のものは女性のために生じたので、女性のものです。女性のものは、もちろん男性のものです。
男性と女性の愛の象徴は何でしょうか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性が一つの体になるようにする性の器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に合わさることのできる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっており、女性は男性のものをもっているのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相対のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ、男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために、愛の器官を互いに取り替えてあげたのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差しおいて自分勝手に行動した人は、愛に違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中でも最も恐ろしい法の罰を受けることを知れば、夫は自分の妻をさておいて、他の女性のことを考えたりすることはなく、反対に妻は、夫を放っておいて他の男性のことを考えたりしないのです。
男性と女性は互いに絶対的に必要な存在愛は絶対に必要なものです。その愛に絶対に必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要です。どれほど必要でしょうか。国よりも、世界よりも、さらには神様よりも、もっと必要なのです。女性がいなければ、百年もたたずに人類は滅亡します。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから、女性が絶対に必要です。
「人」と言えば、男性と女性のことを意味します。一人の男性について見れば、女性がいなければならず、女性について見ても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性に必要なその女性も、自分が願って生まれたのではありません。生まれてみたら、男性であり、女性だったのです。
自分は知らずに生まれましたが、自分を生んでくれた方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるからです。同じように、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性かいるからです。すべて知って、そのように生まれたというのです。
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に、女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからです。同じように女性も、絶対的に必要な存在は男性であることを知らなかったのです。真の愛の味を感じるためには理想圏をもたなければならないのですが、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要です。真の愛のための絶対的男性と女性は、一心に努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の真ん中に臨在するようになるのです。真の愛によって結ばれた夫婦が別れるのは神様も嫌うので、絶対的男性と女性の愛は永遠になるのです。
神様は、全知全能の方ですが、その絶対的な存在も、お一人では何の意味もありません。それと同じように、ある男性が美男子で、健康な人だとしても、女性がいなければその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って一人で生きる男性や女性は、どこにも使い道のない存在にすぎません。そのように自己陶酔に陥って生きる男性や女性が世の中に多いことが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因でもあったのです。自己陶酔に陥って回っている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったことを知らなければなりません。
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