愛は一人では成立しません。愛は私から出てくるのではなく、相対を通して出てきます。相対から出てくるので、私が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きなさい」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが私に訪ねてくるのですが、それを受けようとすれば、相対を高めて、ために尽くさなければならないという、「ために生きる哲学」を実践しなければなりません。
人には愛があります。しかし愛とは、自分一人では現れません。男性が一人でいるときは、愛が現れません。男性の前に相対となる女性が現れてこそ、愛が生じるのです。
父母の愛が良く、夫婦の愛が良いと言うとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、私から始まるのではなく、相対から始まるのです。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分自身から始まるのではなく、相対から始まるというのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人です。
愛は相対から現れます。相対が醜くて好ましくなければ愛の作用は遅くなり、相対が美しく好ましければ愛の作用もその分、早まります。相対の言葉、美しさ、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定するのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は、「私」ではありません。愛という言葉は、相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができません。愛の根拠地は、私ではありません。「愛は私からだ!」と言うのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は私ではありません。愛の根拠地は自分であると考えるのですが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。今まで、妻は妻なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だと言って、互いが「私のために尽くしなさい」と言ったので、破綻に至るのです。愛の根拠地は私にあるのではなく相対にあるので、その愛を私が手にするためには、私自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を求めます。また、愛は克服を必要とします。このような観点から、サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他の所からは見いだせません。神様を中心とした愛の原則に従うことによってのみ見いだせるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。「慈悲」という言葉も、愛がなければ出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てきません。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語るものなのです。
異性間で愛の調和を形成すれば男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。したがって、二人が合わさって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の体つきはごつごつしていて、女性はしなやかです。男性は髭が生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べれば、相対的に釣り合っています。調和が取れるのです。人は肉的構造を見れば、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さんは、高いだけ、あるいは低いだけのものが良いですか。調和しているのが良いのです。水平線を中心に、下には魚類が棲み、上には哺乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度ずつ、生理が起きます。月を中心として潮の流れが変わるように、女性もそのようになっているのです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和してバランスを取らなければなりません。なぜ人々は、昇ったり降りたり、回ったりする様々な施設があるディズニーランドを好むのでしょうか。宇宙がそうなっているからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらのほうが気分が良いでしょうか。男性と女性が和動するほうが良いのです。宇宙がそうなっているからです。宇宙が陰陽の調和を形成して和動するので、拍子を合わせなければならないのです。
異性間で愛の調和を形成すれば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ベば、神様は降りてきて、人間は上がっていくようになり、中央で出会うのです。神様がこの円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点からは四方のどこにでも通じることができます。その求心点は、愛の調和が形成される所であり、生命が胎動する場であり、共生共栄主義の始発点です。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容の力は、愛なのです。
人間にとって、愛は永遠なものであり、二つではなく一つです。男性と女性が愛で結ばれれば、地上において偕老同穴を果たさなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることにより、一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様のように回って愛の四位基台を造成するのですが、それが正に、愛の理想世界です。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心として、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立てば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台を造成すれば、相手側の体を通して心まで愛するようになり、心を愛するようになれば、体まで従ってくるようになっているのです。
真の愛に酔った本然の人間この世で最も神聖なものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は、神様から出発します。神様が存在されるならば、それ以外の道はありません。神様が心から願うのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなければ、神様のみ前に出ていけないということを知らなければなりません。神様は、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいというのです。人間も、神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有したといって、うれしいとおっしゃるのではありません。
人間の体を見れば、人体は五官をもっています。人間は誰でも五官の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に酔うようになっています。酔った瞳の色は、どれほど美しく輝くでしょうか。真の愛に酔っている人のほほえむ唇は、どれほど魅力的なのか、考えてみてください。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五官の調和が、どれほど美しいかを想像してみてください。そのような美しさを通した喜びを、神様お一人では体験できないのです。そのような美しさは、実体的な相対がいてこそ体験できるのです。これが、神様が人間を創造された目的でもあります。
真の愛に酔った瞳を見つめみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという、美しい男性と女性がいるとすれば、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛の女性がいれば、その女性の心情世界を旅行したいという思いをもつはずです。美しい女性の心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動が起こるはずです。神様は、御自身が天地を創造された以上に美しい内容を所有したアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われたでしょう。
神様は真の愛の人間に対して、宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいという思いをもたれるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様がお住まいになるので、神様と人間が一つになって造り出した世界は、喜びと美しさが満ちあふれた世界であるということが、はっきりしているのです。
真の愛が完成したならば、感応される神様は、その真の愛に頭まで浸(つ)かっても後悔なさらないでしょう。真の愛の中であれば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様です。真の愛の世界で人類が暮らすとすれば、一生、後悔のない幸福な生涯になるでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になるでしょう。
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