このうちで最も重要なのは、本体論の欠如です。本体論というのは、絶対者に関する理論のことを言います。宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者はヤハウェであり、キリスト教の絶対者は神様であり、イスラームの絶対者はアッラーです。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結するので、「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化しており、真理は諸法の背後にある「真如」から見いだすことができるとしているので、「真如」が仏教の絶対者と見ることができるのです。
ところが、そのような絶対者に関する説明が、非常に曖昧です。絶対者の属性はどのようなものであり、なぜ創造し、創造の動機は何であり、どのような方法によって創造し、いったい神様(絶対者)は実際に存在するのか、などに関する解明が、宗教ごとに明確になっていません。したがって、各宗教の徳目が成立する根拠が明確でないので、今日の宗教の説得力が弱まっているのです。
すべての宗教の教えである徳目、すなわち実践要目がきちんと守られるためには、その宗教の本体である絶対者の属性と創造の目的、その絶対者の実在性などが十分に明らかにされなければなりません。中世時代、または近世以前までは、人間の頭がそれほど分析的、論理的でなかったので、「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」、「王に忠誠を尽くし、親に孝行しなさい」と言えば、無条件にその教えが正しいと思って従順に従いましたが、科学が発達した今日においては、人間の精神がとても分析的になり、論理的になっているので、いくら宗教指導者が「このようにしなさい」と教えても、「なぜそうしなければならないのか|とその理由をしつこく尋ねてきます。したがって、その疑問に答えてあげなければ、その教えは説得力を失ってしまうのです。
宗教の教えに対する疑問には、様々なものがあります。「果たして神様はいるのか」、「神様は、全知全能であり、遍在され、至善、至美、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現されるが、それをどのように知ることができるのか」、「じっとしていてもよい神様が、なぜ宇宙を創造したのか」、「神様の創造の目的は何か」、「創造には方法があるはずだが、その方法とは何か」、「絶対善である神様が創造した世界になぜ弱肉強食の現象が展開しているのか」、「人間が堕落して罪の世界になったというが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落したのか」などの疑問です。このような疑問に対して合理的な答えが与えられない限り、今日の有識者たちは、宗教を受け入れようとしないのです。したがって、キリスト教の愛の徳目、儒教の家庭倫理の規範、仏教の修行の実践要目、イスラームのコーランの要目は、捨てられたものになってしまうのであり、時には有識者が反宗教的な行動までも起こすようになるのです。
歴史的にキリスト教の世界であるヨーロッパの土壌に、近世以後、唯物論と無神論が発生し、今日、全世界を席巻(せっけん)しているのは、その根本原因が実にこの本体論の曖昧性にあるのです。その最も顕著な例が、マルクス、レーニン、スターリン、ニーチェなどが、キリスト教の家庭に生まれていながらも、無神論者、反キリスト教者になったという事実です。
さらに嘆かわしいことは、人間の闘争を仲裁し、人間の精神を先導すべき宗教が、今日、時として紛争を起こすことによって、宗教の威信と権威をより一層失墜させているという事実です。ユダヤ教とイスラームが闘い、旧教と新教が闘い、キリスト教と仏教が闘い、甚だしくは同じ宗教の教派間で闘っています。
このような宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧性にあります。絶対者はただ一つであり、二つや三つあるということはあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは、「自らの絶対者だけが正しい神であり、その他の神は真の神ではない」と思っているので、結局、宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が複数になるという背理が成立してしまうのです。
これを言い換えれば、すべての宗教の神様は、相対的な神様にすぎないという結論になり、各宗教を通して立てられることになっていた絶対的価値観、すなわち神様の愛と真理に関する理論は、相対的なものにとどまってしまったことを知ることができます。すなわち、今までの宗教は、混乱を収拾する絶対的価値観を立てることができないという結論になるのです。それは、すべての宗教が、絶対者に関する正確な解明ができなかったことから生じる必然的な結果だと言わざるを得ません。
このような状況下において、絶対的価値観を確立しようとすれば、文字どおり、唯一絶対の神様に対する、正確で正しい解明をしてくれる本体論をもつ新しい宗教の出現が、必然的に要求されるという論理が成立します。
従来の様々な宗教は、神様が立てた宗教なので、それらの宗教を通して絶対的価値が実現されてきたと見なすことはできますが、今日、宗教紛争が起きていることから見て、各宗教の神様は絶対神になり得ず、絶対的価値観が従来の宗教を通しては立てることができないことを確認できます。したがって、絶対的価値観の確立のためには、新しい宗教が出現せざるを得ないという結論が成立するのです。
新しい宗教と新しい本体論新しい宗教のための新しい本体論は、従来の各宗教において絶対者とされていたものが、各々別個の神様ではなく、同じ一つの神様であるということを明らかにしなければなりません。それと同時に、その神様の属性の別な部分をそれぞれ把握したのが各宗教の神観だったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は唯一の神から立てられた兄弟的宗教であるということを明らかにしなければなりません。それだけでなく、その本体論は、神様の属性と共に創造の動機と創造の目的とその法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙の万物の運動を支配していることと、人間の守るべき規範も、この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
日月星辰の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系が形成されているのと同じように、家庭においても、祖父母、父母、子女によって形成される縦的秩序と兄弟姉妹によって形成される横的秩序の体系が立てられると同時に、相応する価値観、すなわち規範が成立していることを明らかにしなければなりません。さらにこの本体論は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても納得できなければなりません。
そして、さらに歴史の中で「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ」という命題が適用されてきたことが証明されなければなりません。そのような本体論によって立てられる価値観こそが、真の美の絶対的価値観であり、このような価値観の確立とその絶対価値(絶対真、絶対善、絶対美)を理解し、実践することによって、人類の精神改革が成し遂げられると同時に、世界の混乱は次第に消えていくでしょう。
新しい本体論によって、神様に関するすべてのことが解明され、すべての宗教の神様が、結局、唯一の絶対神として、すべて同じ一つの神であることが明らかにされれば、すべての宗教は、各自の看板をそのまま維持しながらも、実質的な宗教の統一が成し遂げられ、神様の創造理想である地上天国の実現に向けて共同歩調を取るようになるでしょう。そして、すべての宗教の教理における不備な点、未解決な点が新しい本体論によって補完され、実質的な教理の一致化までも実現されるでしょう。かくしてすべての宗教は、神様が宗教を立てられた目的を完全に達成するようになるのです。
以上のように、今日の世界的な大混乱を収拾することができる絶対的価値観に関するもろもろの問題点を解決するために、新しい宗教として登場したのが統一教会であり、その内容は、広範で、理論的で、有識者までも洗脳すると言われている、かの有名な「統一原理」と「統一思想」なのです。今回の会議に参加された皆様の絶対価値に対する、たゆまぬ努力と研究がより深まることを願い、神様の加護が共にあることを祈ってやみません。ありがとうございました。
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