神様は善の中心です。サタンは悪の中心です。また人類の歴史は、人間を通じて起こる善悪の闘争史、すなわち神様とサタンとの間の闘争史です。しかし、神様とサタンは正反対の戦略を取ります。高慢で欲の深いサタンは、常に善の側を攻撃します。神様の陣営は常に攻撃を受け、苦痛を受けます。しかし、これは神様をして正義を立てさせる機会を与えてくれるのです。善の側は、正当であることが立証され、新しい領土を占有するようになります。その反面、サタン側は弱まり、敗退せざるを得なくなるのです。一例として、第一次世界大戦のとき、戦争を挑発した国は究極的に敗北しました。第二次世界大戦のときも同様でした。日本、ドイツ、イタリアの同盟国は、結局は連合軍に敗北しました。搾取する勢力はみな、究極的には衰退し、その反面、善のために迫害を受ける人は、いつかは神様によって高められるようになるのです。私の生涯がそれをよく証明しています。
私は善のために、そして神様のために苦痛を受けてきました。相手は常に無慈悲で、残忍でした。数十年前、私は拷問を受け、むちで打たれ、何回か投獄されました。迫害した人たちは、恐らく私の活動が消滅し、忘れ去られるだろうと思っていたと思いますが、正反対の現象が起きたのです。私は、世界的な財団や団体を設立し、事業と活動が発展し続け、栄えています。
すべての人間は、一生の間、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を冷遇し、踏みにじり、乱用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも助けになるように話し掛け、私たちを真の愛と連結させてあげようとしています。私たちの良心は、私たちをして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、乱用してきました。私たちがこのことを悟ったとき、私たちは、自らの良心の敵だった肉体、すなわち自分の生命と人性をひどく損傷させた肉体の味方につくことができるのでしょうか。
私たちの良心は常に、心の中の師として、また父母として、人類の究極的な父母である神様と一つになるように導いてくれなければなりません。このとき、良心は、私たちの中にいる神様の代身者となり、さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆様は、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。肉体は、肉体的な欲望のみを追求するだけです。おなかが空けば、盗んででも飢えをしのごうとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。肉体の領域を主管するようになるとき、縦的な自我としての精神と横的な自我としての肉体は、完全に調和の中で一つとなって、その人は完全となり、神様の愛の中で永遠に一つになるのです。
神様は、真の愛、真の生命、真の血統の源衆です。私たち人間は、正にこの源泉に由来しているために、私たちもまた、真の愛、真の生命、真の血統をもたなければなりません。しかし、人間は堕落によって、不幸にも神様の子女という位置に至ることができなくなりました。男性と女性は、神様からではなく、サタンから愛と生命と血統を受けました。人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体はサタンが活動する所です。肉体はサタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら引き続き精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することはとても重要です。
ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと宗教を立てられました。神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教が断食、奉仕、従順で謙遜な態度などを求める理由は、正にこのようなところに由来しています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従させる方法です。信仰生活を通して肉体を中心とした生活習慣から抜け出て、新たに精神を中心とした生活様式をつくりあげるまでには、普通三年ないし五年かかります。
また、聖書に「絶えず祈りなさい」(テサロニケI五•一七)という聖句があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日二十四時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。その反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼすことができるのです。神様の目には、堕落した世界は霊的死の世界です。神様は、死の世界を生命の世界へと蕩減復帰しようとするみ旨をもっていらっしゃいます。ここで復帰とは、救援のまた別の表現です。本来の理想的な状態を喪失したときには、これを復帰しなければなりません。健康な人が病気にかかれば、医者が来て、再び本来の健康な状態へと回復させてあげなければなりません。同様に、神様が意図された本来の創造理想が失われたので、神様は、この堕落した世界を原罪のない本来の状態へと復帰しなければならないのです。これを成就するために、神様はメシヤを送られます。
しかし、メシヤが来る前に、神様は、特別に選んだ人々を通してメシヤを迎える準備をさせます。このことは、野生のオリーブの木の果樹園に例えることができます。野生のオリーブの木の果樹園は、堕落した領域の中で神様が依然として指示し、統制できる特定の区域を象徴しています。これが準備されたのちにメシヤが来ます。メシヤは、神様の果樹園における野生のオリーブの木をすべて切って、ここに生命の真の枝を接ぎ木します。そうすることによって、野生のオリーブの木は、すべて真のオリーブの木になります。そのようにして人間は、本来の状態へと復帰されるのです。
今日の信仰者は、正に神様の果樹園にいる野生のオリーブの木です。しかし、最も篤実な信仰者だとしても、神様の真の血統をまだ受けていないので、依然としてメシヤを探さなければなりません。メシヤは、人類の真の父母としてこの世に来て、本来のアダムとエバの位置に人間を復帰させてあげなければなりません。したがって、神様の真の血統と連結されるためには、すべてメシヤであられる真の父母と一つになって、真の愛を受けなければなりません。そのようにすることによって、すべての人は、神様の真の息子、娘になることができます。そのような方法で、メシヤは人類を救ってくださるのです。メシヤは真の父母の立場で、悪い種から育った木を根こそぎ抜き取って、サタンを屈服させなければなりません。そのようにして、メシヤは、真の愛の中で人類を神様と一つになるように連結し、すべての人を神様の真の息子、娘にしなければなりません。このような方法で、地上天国が建設され、人類はついに本当の自由を享有するようになるのです。
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