日付:二〇〇四年七月二十三日
場所:韓国、忠清南道、天安、柳寛順体育館
行事:「二〇〇四世界文化体育大典」
世界百二十ヵ国からいらっしゃった高名な内外の貴賓、宗教界、学界、政界、市民団体など各界の指導者、「超宗教平和スポーツ・フェステイバル」に参加する青年、国際祝福結婚式の参加者、世界からお集まりになった青年、大学生、そして紳士淑女の皆様。
世界文化体育大典の目標は心情文化世界の創建一九八八年に私が創設した「世界文化体育大典」は、その核心的主題と目標が、心情文化世界の創建にあります。全人類が神様と真の愛を中心に調和と統一を実現し、共生共栄共義の世界を具現するためのものです。
したがって、世界文化体育大典の行事は、人間のつくった障壁を崩し、超国家、超人種、超宗教的な和合一体を指向する文化祝典なのです。今年の「世界文化体育大典」は、摂理史的に「先天時代」に終止符を打ち、「後天時代」が開かれるこの時点において開催されるという点で、より一層大きな意義があります。
この場をお借りして、私はきょう「真の理想家庭の絶対価値観は真の愛の主人を定める」という題目で、今日、天が人類に下さった真理の一端を紹介しようと思います。
皆様。神様が人間を創造された目的とは何でしょうか。全知全能であり、遍在される神様も、独りで存在することを望まれなかったがゆえに、まずは天宙を人間のための環境として創造され、その上に神様の真の愛で創造されたのが人間です。
神様は、その対象である人間が、神様御自身よりも立派で大きな存在となることを願われたので、人間を御自身の子女として造られたのです。世の中でも父母は、子女が自分よりも成功し立派になることを願うでしょう。これは、すべて神様が祝福として下さった父母の愛なのです。
相対のために生きる人生が愛の主人になる道子女として造られた人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受け、真の子女を繁殖し、真の永遠の理想天国を成し遂げて生きる姿を見て、喜びを感じようとしたのが神様の創造目的でした。愛の主人となる道は、まず相対のために自分を徹底的に犠牲にして投入する、そのような真の愛の実践を通して開かれるようになります。神様は人間を創造されるときも、まず御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てて、一〇〇パーセント投入されたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。
愛の主人は、独りでなるものではありません。必ず対象を通して成立するものなのです。この絶対的価値圏の愛の原理の前では、神様も同じなのです。子女がいなければ、父母は永遠に愛の主人になれないように、神様御自身が絶対愛の主人の位置に立つためには、その相対圏である人間を、絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです。絶対主体と絶対対象の価値観が生まれて、初めて完成するのです。
宇宙の秩序を見れば、大きいからといって、小さいものを無条件に犠牲を強いて、摂取するようにはなっていません。ヘレニズムに基づいた弱肉強食による適者生存の理論は、根本的に間違っています。ために存在し、真の愛で投入して忘れる絶対服従の対象として、主体的愛の主人として完成させようという絶対価値観を、彼らは見落としているのです。真の愛を排除すれば、闘争概念だけが残るのです。
しかし、神様の「創造原理」は、闘争を通した生存と発展ではありません。主体と対象の関係の中で相互に授受作用をしながら、絶対価値観に基づいて調和統一を追求するのです。「小」が「大」のために犠牲になるとしても、それを闘争と見てはいけません。相互発展のための投入と見なければならないのです。個人は家庭のため、家庭は国家のため、そして国家は世界のために譲歩し、犠牲を甘受することが、どうして闘争と言えるでしょうか。
このように、絶対的価値圏とは、まず相対を真の愛の主人格として立ててあげる真の愛を完成させるためのものです。したがって、私たちの生活の中で、利己的で個人主義的な思考や行為は、徹底的にその根を抜かなければなりません。これは堕落性の根と同じもので、すべての悪の原因を提供しています。個人的次元の利己主義の行動や集団個人主義的行為も同様です。それは真の愛の絶対価値観の精神とは正反対の道です。他のために犠牲となって与えるのではなく、自分のために他を犧牲にし、自分の利益だけを追求する破廉恥な行為です。堕落によって引き起こされた人間の心と体の闘いの中で、巧みに掘り下げて、サタンが人類に植えつけた毒きのこです。自分の栄達と慰めのため、見た目が美しいからといって、一度食べたら中毒に陥り、一生、努力しても抜け出すのが難しい悪の罠です。
すべては相対のために存在する「前」と「後」のことを考えてみてください。「前」という言葉を語るそれ自体が、既に「後」を前提条件として認めているのであり、「上」という言葉も「下」を先に認めてこそ成立する言葉であり、「左」は「右」を前提とする言葉です。同じ論理で、「男性」という言葉も「女性」という存在が先にあってこそ成立するものです。すなわち、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたと言うことができます。男性がいなければ、女性は必要ありません。同じように女性がいなければ、男性は存在価値がないのです。
結局、自分のために生まれたものは一つもないということです。すべての存在物は、相対のために存在し作用するのです。相対的関係によって理想郷に向かうように創造されたという意味です。人間の五官について考えてみてください。皆様の目は自分の目そのものを見るためにできていますか。目、鼻、耳、口、手、これらすべては相手のために生じました。そうであれば、この五官を総動員し、生命を維持して活動を続けるようにする力は何でしょうか。真の愛の価値観を完成させようとする力です。私たちの五官は、真の愛を実践するために必要なものとして生じた道具にすぎません。
このように、自分のためにできたものは一つもないのです。相対のために与え、愛で犠牲となり、服従で愛の主人を完成させる生き方こそが、神様の創造理想にかなった生き方なのです。相対のために創造されたのですから、当然のこととして、相対のために生きてあげなければならないのは天理なのです。そこから真の愛の絶対価値が創出されるのです。
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