統一教会が願う国が建設されれば、統一教会の看板を外さなければなりません。そして、統一教会が願う世界が形成されれば、統一教会が立てた国はなくさなければなりません。大韓民国の韓民族を中心とした文化と人格だけのための宗教は捨てなければなりません。世界のための宗教であってこそ、これからも残る宗教になるのです。
満場の内外の貴賓、紳士淑女の皆様。神様のみ旨を受け継ごうとする人がいるならば、その人はいかなる主張をしなければならないと思いますか。この世の人々が好む、そのような方向に行きなさいという主張は絶対にできません。むしろその反対の道に行きなさいと主張しなければなりません。それに該当する代表的な標語が「愛の心をもって怨讐を愛しなさい!」というものです。「怨讐を愛せ!」というこのみ言は、誤った歴史を元に戻すことができるものとして、台風に押し流される船の錨のようなものであり、錨綱のようなものです。しかし、復帰摂理歴史を通じて「怨讐を愛せ!」というみ言を実践してきた人はいませんでした。もし、怨讐を愛する人々がいるならば、そのような人々によって一つの組織的な形態を備え、世界的な版図を確保しなければなりません。このような結論が出るので、そのような運動を神様が提示されなければならないのですが、神様によって提示されたその運動の反映体が、歴史に現れた宗教運動なのです。
今まで、神様が最も愛する人は誰でしょうか。イエス様です。イエス様は、争っているこの世界に新しい方向を提示してくれました。ローマやイスラエルのように、抑圧国家と被抑圧国家との間には、互いに怨讐視し合う高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまわなければならないというものでした。イエス様は「ローマよ、お前は力で私を征服しようとするが、私はその反対に愛をもってお前を征服する」と考えたのです。それで、十字架にかかりながらも、怨讐のために福を祈ってあげたのです。そのような思想は、ローマの兵士たちのために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三•三四)という驚くべき祈りとして現れているのです。イエス様がそのようにされることによって、世界のすべての国が互いを怨讐視することを乗り越えることができ、二つの国家間の国境を乗り越えることのできる一つの原型、または模範となりました。
イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないことを知っていました。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐が四方から縛りつけていることを知っていたのです。これは、私に従い、私が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待ち受けているということなのです。そして、家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っており、氏族的に行けば氏族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予想されるのですが、そのたびに怨讐を愛しなさいという言葉なのです。このような精神をもっていれば、いつかは勝利できるのです。
それでは、神様の理想国家の実現、すなわち祖国光復はどこから実現されるのでしょうか。怨讐を愛するという思想をもった個人から出発するのです。ですから、神様がいらっしゃる限り、愛で国境を崩し、すべての環境と文化的な垣根を越えて、怨讐までも抱こうという運動を提示したキリスト教は、世界的な宗教にならざるを得ないのです。大豆を植えれば大豆ができ、小豆を植えれば小豆ができ、真っ赤な花の種からは真っ赤な花が咲きます。同じように、恨みを晴らす悪魔サタンの種を蒔けば、恨みを晴らす悪の木が育つのですが、怨讐を愛する善の種を蒔けば、怨讐を愛する善の木が育つのです。これは自然の道理なのです。
神様の祖国は、どこから、どのような道を通して訪ねてくると言ったでしょうか。それは、怨讐を愛する道、個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐を愛し、氏族の怨讐を愛し、国家と世界の怨讐を愛する伝統を残す道を通して訪ねてくるのです。そのような道でなければ、神様の祖国は現れることができないことを、皆様は知らなければなりません。
考えてみてください。アメリカが反対し、国務省が反対し、国会が反対したので、私は、国会で勝利したという賞状を受け、国務省から勝利したという賞状を受け、アメリカで勝利したという賞状を受けることができる時が来るはずです。それで、反対する国務省の中にも友人ができ、国会の中にも友人がたくさんできています。勝利は、私に返ってくるようになっています。私は、そのような友人が一人もいなかったとしても、あらゆる反対を克服して勝利に導くことができるという確信があります。反対されれば反対されるほど、怨讐を愛するこちらの気持ちがより大きくなるので、たとえ反対が大きいからといって落胆する必要はありません。
自然の道理は、一方が低気圧ならば、もう片方は高気圧になるようになっています。一方が高気圧になれば、もう片方は低気圧になるのです。アメリカの国務省が高い所から反対するとき、私が低気庄圏を形成していれば、高気圧が低気圧に吸収されるように、アメリカの国務省は私に屈服してしまうでしょう。私は、非難されながらも闘わずに彼らを愛していったところ、彼らは私の友人になり、友人の家庭ができ、友人の氏族ができ、友人の国ができたのです。
怨讐を愛する精神をもった人々によって構成された国が現れれば、その国は、神様が願う理想郷となることができ、人類が入っていく理想郷になることができることを知らなければなりません。私、文総裁は、みすぼらしい男です。皆様は「そうではない」と言いますが、世の中の人たちは、私を愚かな人と思っています。しかし、神様は、私のことが一番お好きです。世の中が私を愚か者扱いしたとしても、神様が認めてくださるので、世の中に対して堂々とした立場で攻撃できるのです。
怨讐を愛する心をもてば、語れない言葉がありません。なぜでしょうか。神様が送った男性を美男子というならばそのような人が美男子であり、すてきな人というならばそのような人がすてきな人であり、堂々として勇ましい人というならばそのような人が堂々として勇ましい人であると考えるので、私は、それを光栄に思い、世の中に対して自信をもって攻勢をかけるのです。
私一人がその境地に浸って活動すれば、何が起こるか御存じですか。このようにすることによって、神様が喜ぶ青年男女が生まれ、神様が喜ぶ五色人種の家庭が生まれ、神様が喜ぶ民族が編成され、神様の祖国光復が可能になるのです。「怨讐を愛しなさい」とあるので、最も憎むべき人でも愛さなければなりません。一番の美男子に一番の醜女を結んであげたとしても、怨讐を愛する以上に愛さなければなりません。そのような人は、この世の怨讐を愛することにおいて、最高の王子の旗を掲げて前進する候補者です。事実そのような人がいるならば、どれほど素晴らしいか考えてみてください、そのような人は、民族の国境を越えることができるのです。愛する心さえもって暮らす日には、すべての障壁が崩れていき、復帰摂理歴史が短縮され、天国が近づいてくることを知らなければなりません。
私の哲学は簡単です。より大きなもののために犠牲となり、奉仕をすることです。私は、やってみなかったものがありません。農民にも、労働者にもなってみました。やれることはすべてやってみました。漁夫になってまぐろも釣りました。そのようにして生涯を送ってみると、一人だと思っていたのに、あとからイギリス人もついてきて、アメリカ人もついてきて、世界の数多くの人々がついてきています。ついてきてはいけないと蹴飛ばしても、またついてきて、後ろに行ったと思っても、またついてきます。
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