それでは、「神の国」を建設できる人とはどのような人でしょうか。自らの一身を否定し、切ない心で天のために生きる人です。自分を否定して社会と民族、国家、世界のために生きる人が、正に「神の国」を建設できる人なのです。さらには、国家と世界を否定しても、天のために生きる人が天国を建設できる人です。また、いかなるつらい環境にぶつかったとしても、自分一身のゆえに悲しむのではなく、社会と国家、世界、さらには天のために悲しむ人であってこそ、「神の国」を建設できるのです。
それだけでなく、皆様は、「神の国」と「神の義」を探し立てるその過程において、サタンとの闘いに敗北せずに勝利して、個人から家庭、社会、民族、国家、世界を一つに連結させることができなければなりません。すなわち、皆様がいかなる立場に立ったとしても、そこでサタンと闘って勝利する人にならなければならないのです。社会に出れば、その社会のいかなる環境の中にあっても、サタンと闘って勝利すべきであり、国家に出れば、その国家の最も難しい問題に責任をもち、サタンと闘って勝利しなければならないのです。
六千年間神様を縛りつけてきたサタンが、そのまま素直に「ああ、私は降参します」と言って目を伏せて帰っていくと思いますか。皆様は、雑巾であっても、捨てようとすればもったいないと思うでしょう。雜巾でも、ひっくり返して臭いを嗅いでみてから捨てるのです。ですから、サタンはそのまま退いてはいきません。がむしゃらな闘いをしてくるのです。したがって、中心に合わせなければなりません。統一教会の文総裁も、中心から外れるようになる時には負けてしまうのです。方向が合わなければ発展しません。「神の国」を探し出すことは、世界を探し出すためであり、世界を探し出すことは霊界のためなのです。
そうして何をするのでしょうか。神様を地上にお迎えし、そして定着し、万国が神様を中心に侍り、その神様のみ前に勝利の栄光をお返しして差し上げるために行くのです。そのような闘いをすることが統一教会の使命であることを知らなければなりません。私たちは、裸足で乗り出していき、祖国を創建しなければなりません。食ベ残したもので、この国を生かすことができるでしょうか。食べること、着ること、乗って行き来することに、いつ神経を使っていられるでしょうか。裸足と素手で開拓していかなければなりません。そのようなことを行う所が統一教会なのです。
皆様は祖国を探し出さなければならない勇士ですか、それとも祖国を滅ぼす亡士ですか。勇士とは国を代表し、他の人ができない仕事をできる人のことをいうのです。誰もができる仕事をする人は勇士とは言いません。そのような人は兵士です。同僚たちができずに後退するとき、その仕事をやり遂げることができる人ならば、その人は勇士です。勇士の「勇」の字は「すばしこい」という意味があります。誰よりも速く走り、鉄砲の玉もよけられるほどにならなければなりません。誰もができる仕事をする人は勇士とは言えないのです。
祖国光復を成し遂げる土台「神の国」を建国するに当たり、開拓の勇士となるべき、先鋒に立つ将軍は誰でしょうか。「神の国」を成し遂げることができる土台はどこでしょうか。一つの国を成し遂げようとすれば、主権がなければならず、国土がなければならず、国民がいなければなりません。それでは、天の国を中心として見るとき、国土となる土台は何でしょうか。それは、教会の財産しかないのです。それから、天の国の国民とは誰でしょうか。教会員です。また、主権者は誰でしょうか。皆様です。皆様が里長の代身者であり、面長の代身者であり、郡長の代身者であり、道知事の代身者です。
皆様。主体者になりましたか。サタン世界から爆弾を載せて攻繫しようとしたら、最初に飛び出して準備していかなければなりません。そのような心がありますか。そして、お金が一銭でもあれば、教会を広げるために使うのです。その国の版図を広め、国民を結集させることに使うのです。教会の責任者は主権者の代身です。里長を身代わりし、父母を身代わりするのです。このような伝統的思想を残さなければなりません。
しかし、私たちには何もありません。この韓国に立てられる国はどのような国でしょうか。互いが流通し、交流するようになる時は、共産国が立てられるでしょうか、それとも今日の大韓民国としてそのままになるでしょうか、それとも、どちらでもない、新しい国を追求するのでしょうか。このような問題について考えると、私たちの時もだんだんと近づいてきていることを感じるようになります。皆様がこれをきちんと処理し、責任を負うべき統一の群れであるならば、それに対する責任感をどのくらいもち、またどの程度の犠牲の代価を払う決意ができているでしょうか。休戦ラインを越えて北朝鮮に入り、北朝鮮の五つの道の市、郡を中心として、私たちの基地を準備しなければなりません。
人員が不足なこの時に、誰が北朝鮮の地、定州ならば定州の責任者になるのかを考えなければなりません。定州の郡ならば、定州の郡を中心として私が責任者にならなければならないと考え、十年、二十年準備し、それでもできなければ、子孫に「お前は、一生懸命に勉強し、一生懸命に準備をして、その日を迎えたら、定州の地において、天との関係を代表する責任者になりなさい!」と遺言して死ぬことができる、そのような精誠を尽くす皆様になってみましたか。私は、今まで、そのように考えながら準備しています。そのようなことを考えると、若い人たちは、地方に帰って自分の子女と妻を連れて、笑いながら暮らすようになっているでしょうか。そのように暮らすようになっているでしょうか、いないでしょうか。死んでも国を残してから行かなければなりません。死んでも、子女たちに国は残してあげなければなりません。ですから、新たな決心をしなければならないのです。
「私は、あのソ連と満州に隣接する地方に行って、共産党と額を突き合わせ、朝夕に銃声を聞きながら、国境地帯の見張り役をする責任者にならなければならない。国が理解してくれず、誰も理解してくれなかったとしても、生命と引き換えても、神の国を愛する忠節の心は変わらない」という決心をしなければなりません。それでこそ満点なのです。世の中は理解してくれなくてもかまいません。霊界に行けば、すべてが明らかになるようになっているからです。
このようなことを考えるとき、人手が足りないことを皆様は知らなければなりません。人が不足しているので、かかしのような男性であっても、ラッパを担がせ、あるいはロボットをつくって北朝鮮の地を歩き回らせ、ラッパを吹かせたいというのが、私の心情であり、神様の心情です。口があり、感情をもった男性として生まれ、それも二十歳、三十歳の若い心と体をもっていながら、原理のみ言を語ることができないというのでは話になりません。夜は眠らずに勉強をしなければなりません。おなかがすいて骨と皮だけになったとしても、準備をしなければなりません。そのようにしてやせこけた体が、天の愛をことごとく受ける体になるのです。神様は、そのか細い一人の男性ならば男性に、すべての期待をかけることができるのではないでしょうか。
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