イエス様も、国を建てるために来られました。祖国がなければ、かわいそうなのです。祖国がないので、宗教人たちは悲惨でした。審判しようとするならば、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界が不変の基準に立ってこそ、その基準を土台として審判するのです。祖国は最後の希望です。祖国の中には、民族も、氏族も、家庭も、個人もすべて含まれています。この三千里半島(韓半島)が祖国になったでしょうか。そのようになっていないのですから、清算しなければなりません。神様が望まれ、イエス様と聖霊が望まれる祖国を創建するために、私たちは一片丹心で努力しなければなりません。善とは何でしょうか。家庭のために個人が犠牲になり、氏族のために家庭が犠牲になり、祖国光復のために氏族が犠牲になることが善です。祖国光復のためにすべてが犠牲になって、祖国光復が成し遂げられれば、すべての人が愛国の忠臣となるのです。国家的基準の前に忠誠を尽くして国家基準を立てれば、家庭と氏族の基盤を築いたという公認を受けるようになります。道の基準は、神様のために絶対的に忠誠を尽くすことです。そのようにすれば、その過程のすべては認められるのです。
私たちはいかにすべきでしょうか。イエス様は「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言われました。ここにおいて、「わたしの思い」とは世の中の思いであり、「みこころ」とは神様のみ旨のことです。統一教会員である皆様は何をしましたか。忠臣の道理を立て、またその実績をもってきましたか。孝子の道理を果たして、その実績をもってきて、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的な闘争をする覚悟ができていなければなりません。
イエス様は祭物の使命を果たして逝かれました。皆様は世界的な闘争をしていきながら、民族的な基盤を築いていかなければなりません。メシヤとの相対的な価値を備えなければならないのです。指導者が世界を開拓するところにおいて、指導を受ける皆様は、民族的な道を築かなければなりません。数多くの人々が光復の道を願いながら死んでいきました。いつになるとしても「必ず成し遂げられる」という信念をもって死んでいったのです。
統一教会員は、個人から民族と国家基準まで築いてきました。今からは、全世界の人類とすべての国家を動員しなければなりません。私たちは、祖国光復、自由、平等、幸福の日を探し求めていかなければなりません。その道が困難であっても行かなければなりません。それが、私の見つめる観点であり、神様が願われる甚準です。イエス様はこの基準を望みつつ、歩まれている途中で亡くなりました。私たちは祖国光復の過程において、苦労しながら行かなければならないのです。
韓国は、私たちが責任をもたなければなりません。あすも変わることのない祖国創建という覚悟と信念をもって、イエス様の祖国、聖霊の祖国、預言者と烈士の祖国、神様の祖国を建てられなかった恨を解かなければなりません。そうでなければ、面目が立たないのです。私たちは、祖国を探し出さなければなりません。祖国を探し出そうとするならば、祖国のために生きなければなりません。祖国のために生きることができない人は祖国を探し出すことはできません。それでは、どのように生きることが祖国のために生きることなのでしょうか。世界を自分の祖国と思って、世界のために生きなければなりません。そのような人は、祖国を創建することができます。食べること、寝ること、歩いていくこと、すべての生活と行動が祖国創建のためのものにならなければなりません。
ですから、私たちは、たとえ共産党から刃物で刺されることがあったとしても、行くという覚悟をもって闘っているのです。この民族ができないときは、私たちがしなければなりません。この民族が行くことができなければ、私たちが行かなければならないのです。そのためには、誰よりも祖国を愛さなければなりません。御飯を食べるのも祖国のために食べ、結婚するにしても祖国のために結婚するのです。私たちの祖国のためにです。
まず神の国と神の義とを求めよ今は、私が話せば、聞くことのできる群れが生じ、私が方向を提示すれば、動くことのできる群れが生じましたが、それで幸福を感じるような男ではありません。統一教会を犠牲にしてでも、祖国光復を約束できる、そのような土台を広めていくつもりです。六千年摂理の中心的なみ旨として立てた家庭を信奉できる教団と民族、そして国家がなければなりません。神様を信奉できる土台を準備し、それが一時に連結することを願って送られたのですが、それが粉々に壊れたので、再び収拾しなければならない運命が残るようになったのです。これを収拾するためには、先頭に立って走らなければなりません。
夜になって寝床に入る時間にも、その希望の国とともに寝なければなりません。今は国がありませんが、その国の国民の一員として、その国のために眠るのであり、目覚めるときもその国を建国するための一員として眠りから覚めなければなりません。見て、聞いて、感じるすべての感覚も、祖国という命題を思うことなくしては感じてはならないのです。その日が来るまでは、死んではなりません。その日が来るまでは忙しいのです。そのことを成し遂げるためには、激しい受難と逆境を克服しなければなりません。やるべき仕事があれば、寝るのが遅くなったとしても解決しなければならないのです。祖国の光復というものは、時間を中心とした犠牲の量を加重させてこそ得られると思うとき、自分の涙と精誠の量を、きょうこの時間を通じて、少しでも加えるべき責任があるのにもかかわらず、安らかに寝て、伸びをしながら起きられるでしょうか。
起きては腰を曲げて、「お父様!あなたが訪ねていかれるあすの安息の住みかであり、あなたが行使することを願われた世界を統治する勝利的国家の土台に向かっていく、寂しく孤独な男の行く道が、このように悲惨であることを感じます。私自身がそうなのですから、天が探し求めてこられる道はもっと悲惨なのではありませんか」と祈らなければなりません。
疲れたからといって思いのままに横になることはできないのです。死んでも国のために死ななければなりません。ですから、年を取って疲労を感じる、そのような立場、自分がもし死の場に行くとすれば、その場で残すことができる一つの願いが何かというとき、それは「天のためにできることはすべて果たした。その国のためにできることはすべて果たした」という言葉を残すことです。イエス様は、「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一・三三)と言われました。このように聖書の主流思想は「神の国」です。「神の国」を求める思想なのです。自分の幸福を求める思想ではありません。国の民として生まれ、夫をもったとしたら、その夫は国を代表した夫です。ですから、国を愛した後に夫を愛さなければなりません。妻も国を代表した妻なので、国を愛したのちに妻を愛さなければならないのです。
死ぬにしても、自分のもつ力をすべて使い果たし、自分はこれ以上できないというその立場で「死なせてください」と言えなければなりません。「これをやっておけばよかった」という言葉を残して死んではなりません。ですから、どんな仕事も、やってもやっても忙しいのです。行っても、また行かなければならないのです。ほかの人が休む時間に、私たちは一歩でもさらに進まなければなりません。「サタン世界よ、休んでいろ!サタン世界よ、お前は何もせずに遊び暮らしていろ。我々は神の国のために歩むのだ」と思わなければならないのです。
南北統一を熱望する愛国同胞の皆様。特に女性の使命は、子女格である青年男女および学生たちを、真の教育を通じて真の子女として復帰しなければなりません。さらに、母と子女が一つになって模範を示し、教育を通じて夫までも真の天の息子として復帰し、真の父母に従い、神様を中心に侍り、地上天国の理想を復帰しなければなりません。
きょうのみ言が、韓国と北朝鮮が共に真の愛で出会う、その日を早める国民運動になることを願いつつ、私の話を終わりたいと思います。神様の祝福が皆様と皆様の御家庭に共にあることをお祈りいたします。ありがとうございました。
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