日付:二〇〇一年二月二十五日
場所:アメリカ、ニューヨーク、ブロンクス、ガーデン•オブ•プレィヤー・カテドラル•チャーチ
行事:アメリカ五十州巡回訓読大会
尊敬する内外の貴賓の皆様。きょう、私の話を聴くため、御多忙にもかかわらず参加してくださった、聖職者を中心とする各界各層の指導者の皆様に、心より感謝申し上げます。何よりも常に私と共にあられ、守ってくださった神様に、すべての栄光をお返し申し上げ、深い感謝を捧げます。
今は天の摂理を完成させる時私は生涯を通じて、神様の創造理想を実現するという一念で、諸般の難問題の解決のために苦心してきました。神様は、栄光と尊貴な宝座にいらっしゃる方ではなく、堕落によって地獄に落ちた子女たちを捜し出して救うために全力を尽くしてこられた、悲しみと嘆きと苦痛の神様でした。そのような神様のみ旨と心情を知るようになった私の生涯は、一言で言えば、夜も昼も、季節も、環境も跳び越え、ひたすらみ旨を成就するために全身全霊を尽くしてきた日々でした。
過去八十年の歳月を振り返ってみるとき、あらゆる迫害があったにもかかわらず、私がきょうこの場に皆様と席を共にすることができたのは、神様が共にいてくださったお陰です。この意義深い日に、皆様と共に神様の摂理的な視点から歴史と世界を理解するために、「新千年紀における人類とアメリカの行くべき道」という題名でお話しいたします。
神様の救援摂理的歴史観の立場から見るとき、歴史の終末は、サタン主管の悪なる歴史の終末であり、同時に神様主管の善なる歴史の出発の起点となります。したがって、終末とは天の摂理の全般を完成させなければならない時です。すなわち個人完成を完結させなければならない「終わりの日」であり、家庭、民族、国家、世界、さらには天宙の完成を完結させなければならない「終わりの日」なのです。
神様は、摂理路程において終末期を迎えるたびに、神様中心の理念圏に人類を引っ張ってこられましたが、実際、人類は自ら責任分担を果たすことができず、悪なる歴史を整理して善なる立場に立つことを成し遂げられませんでした。しかし、神様は、絶対、唯一、不変、永遠の方なので、神様のみ旨に対する予定もまた絶対的です。ですから、神様は、堕落によって人類が失った真の個人、家庭、社会、国家、世界、そして真の主権の復帰を通して、天上と地上に神様が運行するその世界を探し出して成し遂げられるのです。
神様が探しておられる本然の世界は、どのような世界でしょうか。その世界は、真の父母を中心とした真の世界です。しかし、人類は堕落によって、歴史の過程ではなく、歴史の始まりの時点において、人類の真の父母と真の世界を失ってしまいました。その結果、堕落によって、私たちが住んでいる地も、人類が所有する理念も、どれ一つとして真の父母と直接関係をつないでくれるものはないのです。
誰がこの世界に責任をもつのかですから、人類は何よりもまず「真」を見つけなければなりません。そうして、真の父母、夫婦、子女、民、万物、主権、宇宙が、真の神様の心情を通じて共に動ずることができる、そのような日が、人間世界において悪なる世界の「終わりの日」となるのです。そのような理想が実現するその時が「終わりの日」であり、すなわち再臨の時期です。ですから、再臨の時期は、火の審判があり、地が割れ、信じる者たちだけが空中に引き上げられる、そのような天変地異の現象が文字どおり起こるわけではありません。その時期は、絡み合った曲折の悲運の歴史が蕩減され、個人から家庭、社会、国家を経て、世界が正しく立てられる時なのです。
縦的に失った個人、家庭、社会、民族、国家、世界を再び探し出し、横的に連結させて、歴史的な個人、家庭、社会、国家、世界を成し遂げる時です。人類が願って生きてきたその日が、人類の希望であり、人類歴史が行くべき終着地なのです。
ところが、個人も、家庭も、国家も行く道を失ってしまいました。世界では各種の公害問題、食糧問題、さらには宗教間の葛藤、人種間の対立などが至る所で起こっており、各種の紛争の主要原因になっています。誰がこの世界に責任をもつのでしょうか。深刻な問題です。過去に共産主義国家も自らの民族主義を越えることができませんでした。今日の強大国アメリカも汎米主義を越えることができずにいます。自国の利益だけを前面に立てる場合には、世界を指導することができません。自らを供え物としてでも世界人類を抱き、より次元の高い理想的な国に前進しようという理念によって団結した、ある民族、ある宗教が必要な時です。
このような側面から、私は、神様の命を受け、アメリカで青年たちを教育しながら、没落していくアメリカの道徳的な危機に対して強い警告を与えるとともに、地に落ちたキリスト教の再復興のために全力を尽くしてきました。
真の父母の教えの核心皆様は、レバレンド•ムーンの教えの核心が何か気になるのではないでしょうか。その答えは簡単です。第一は、「より大きなもののために犠牲となって生きよ」ということです。個人は家庭のため、家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神様のために生きよということです。そのようにすれば、神様は結局、「私」を訪ねてこられ、一緒に暮らしたいと思われるのです。家庭でも、父母は子女のため、子女は父母のため、夫は妻のため、妻は夫のために生きなければなりません。よりために生きる人が善の中心者になるのです。
第二は、怨讐を愛することです。神様は、人類を救うために、ひとり子イエス様を遣わして、犠牲の道を歩ませました。怨讐を、実の子よりも愛するところには、サタンも自然屈伏するのです。いつもサタンの戦略は打って奪われるのであり、天の戦略は打たれて取り戻してくるのが公式的なものとなっています。私が全生涯を通じて、数多くの迫害と苦難を受けてきたにもかかわらず、今日、全世界百八十五ヵ国に宣教の基盤を築くことができたのは、そのような天理に従って生きてきたからです。
キリスト教の宣教の歴史を見ても、イエス様を信じたキリスト教の信者たちの歩んだ道は、追われる道であり、迫害の道であり、殉教の道でした。そのように二千年の歴史を経ながら、殉教の血の跡が土壌となって、民主世界という巨大な体制を発展させてきたのですが、今日、そのような原動力となったキリスト教が危機に瀕しています。キリスト教の理念を中心とした国々が、神様を否定し、イエス様を否定し、さらに神様の摂理を否定しています。挙げ句の果てに「神はいない。神は死んだ」という神学まで主唱しているのを見るとき、今まで真の子女を探し求めて、あらゆる犠牲の道を歩んでこられた神様の心情はいかばかりでしょう。
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