18 お父様は、個人的に霊的な世界で勝利しました。そのために、この地上で激しい嵐に襲われながらも、「死んではならない」と何千万回、決心したか分かりません。怨讐に出会う峠を越えていくたびに、「私は倒れてはいけない。私は死んではいけない。私が死んだらこのみ旨を誰が立てるのか。いくら苦労をしたとしても、四肢が切られ、不自由な体になって寝たきりで暮らすことになったとしても、私は死んではいけない」と、どれほど心の中で誓ったか分かりません。そのようにしながら、今まで困難な道を歩んできました。
基盤のない状態で、名が知られることを恐れるのです。基盤を固める前に、名が知られるのではないかと恐れました。そのような場合には、サタンの攻撃があるのが原則だからです。それで、死なずに四十歳の峠を越える日を待ち望みながら、歳月が早く過ぎていくことだけを黙って願っていました。アブラハムが復帰の基準を立てた以降の四千年の歴史を、「終わりの日」に四十数を立てて越えなければならないことを知って、四十の峠が早く過ぎていくことを指折り数えて待ったのです。また、それはお父様の宿願でした。天宙の前に一身を立て、死なずに責任を果たすために、身もだえしながら今まで歩んできたのです。
19 神様は、四千年を経てイエス様を送られました。イエス様は、長い歴史を経て来られた方です。生まれる時は、母親のおなかを通して十ヵ月で生まれたのですが、地上に来るために、四千年前から準備された方なのです。そのような歴史的な由来をもって生まれたので、その時までの四千年の歴史を蕩減できたのです。
イエス様は、四十歳の時にそのような歴史的な蕩減をすべきでしたが、ユダヤ民族の不信によってそれができなかったので、私たちが七年路程において蕩減しなければなりません。皆さんは、「四十数復帰」ということを学んだはずです。イエス様が四十歳の峠を越えられなかったので、私たちには、四十代の峠を見つめていくべき路程が残っているのです。つまり、そのような蕩減路程が残っているので、再び来られる主も、七年の大患難に逢着せざるを得ません。そのような原理的根拠があるのです。
20 一九六〇年の四十の峠をいかにして越えるのでしょうか。原理が教えてくれる四十の峠を、どのように越えなければならないのでしょうか。イエス様は、三十三歳で亡くなったので、その後の四十の峠を迎える七年を越えることができませんでした。それで、人間の世界に七年の大患難が残されているのです。ですから、この峠をいかにして越えるかというのです。
この峠を越えるためには、ヤコブが経てきた復帰路程と、数多くの先祖たちの絡み合った蕩減路程を遡らなければなりません。その道には、友もなく、同僚もいませんでした。「従います」と言った人たちは、行く道の前に重荷になり、とげを刺し、荒れ地をつくったのであって、そこで助けになった人は(一人も)いませんでした。
21 お父様一代から見ると、四十歳までは個人の勝利基準を中心として、初めて横的な基盤へと越えていく時でした。今まで復帰歴史の目的は、アダム一人を立てることだったので、一九六〇年代は、アダムを中心として勝利するための基盤を築く時でした。その勝利は、イエス様が失敗した国家基準での勝利です。
ですから、一九六〇年代の統一教会は、イエス様が失敗せざるを得なかった運命圏を、お父様の満四十歳を基準として、実体的に蕩減して越えなければなりませんでした。そのような過程にあった統一教会は、一九六〇年代に激しい迫害を受けました。お父様に勇気がなく、神様のみ前に人間として善悪を分別するという、決定的な宣誓ができていなければ、歴史は遅延していたでしょう。
22 父母様の聖婚式は、地上において記念するに値する天宙的な大事件でした。世界的基準で縦的蕩減条件を、横的にこの地上で解決する実体として、霊肉共に勝利の基準を立てたのです。お父様は、聖婚式の前にイエス様の三弟子、反逆したその弟子を復帰しなければならない立場にいました。
聖婚式の目的は、アダム家庭を蕩減する条件を立てることです。人間の父母であるアダムとエバは、夫婦関係において堕落しました。堕落が夫婦を通して起きたので、復帰は一人ではできません。男性一人では復帰されません。女性一人でも天国に行けません。したがって、二人で解決していかなければならないのです。堕落したアダムとエバの立場を復帰して、真の父母の基準を地上で立てなければならないというのです。三弟子の約婚という問題を中心として、解決しなければなりません。
23 復帰は、アダム家庭の復帰を目標として行うのです。アダム家庭が失敗したので、そのみ旨がノア家庭に移されました。神様は、ノア家庭を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅ぼし、サタン侵入の条件を越えた家庭を立てて、摂理の基盤を地上に構築しておこうとされました。それがアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセに移され、イエス様につながって、私たちの時代まで来たのですから、そのすべてのものを蕩減しなければなりません。
アダム家庭を基準にして蕩減しなければならないのです。アダムが失ってしまった三人の信仰の子女を復帰しなければ、真の父母の立場に立つことができません。それで、イエス様には、三人の弟子が絶対に必要なのです。その三人は、アダムとエバにとって、三天使長を象徴します。三天使長が一つになって、アダムとエバに服従しませんでした。侍らなかったのです。その結果、堕落世界になったので、完成した父母の境地に立つためには、三天使長格である三弟子がいなければなりません。再臨主も、完全に服従する三人の信仰の子女をもたなければ、真の父母の立場に立つことができないというのが公式になっています。
自分の生死の境地を乗り越えて、迫害のまっただ中でも従っていき、孝の道を行くことができる三人の弟子をもたなければなりません。お父様は、そのような三弟子を一九六〇年四月に探して立てました。復帰路程というのは、逆に探し求めて上がっていくものなので、祝福は子女の立場に立っている人が先に受けるのです。家庭圏はヤコブ家庭なので、十二数の基準を基盤にしなければなりません。三人の弟子、三人の子女を中心として、それと同じ基準を通過しなければならないのです。
24 父母様は、一九六〇年に聖婚式をしたあとに聖塩を作りました。真の父母様は、堕落した世界の物に相対できないからです。そのような物に、神様の息子、完成した父母は相対できないのです。そのため、すべて燃やしてしまわなければなりません。燃やす条件として聖塩を採択したので、これを振りかけることによって、サタン世界を清算してしまい、天の側が取り得る条件的、方便的な物として使用できるようになるのです。天の国が設定されれば、この世の国のすべての骨董品、この世の国のあらゆる物は、そのまま使うことはできません。
第二節 真の父母様の聖婚式 聖婚と真のお母様イエス様は、アダムとエバの堕落によって始まった歴史を終結し、神様の創造理想世界を復帰するために、この地に来られたが、ユダヤ民族とユダヤ教徒の不信によって、このみ旨を成就することができず、再臨の約束を残されたまま、霊界に行かれた。真のお父様は、イエス様のあとを継ぎ、一九四五年八月十五日、韓国の地で、光復とともにメシヤとしての公式路程を出発された。
しかし、メシヤとキリスト教徒が一つになるための最初の摂理路程が、彼らの不信により失敗することによって、キリスト教に代わる新しい摂理団体の基盤を築くため、三大祝福の条件復帰のための蕩減路程と受難路程を歩まれるようになったのである。
そうして、一九五四年五月一日、ソウルで「世界基督教統一神霊協会」を創立し、その時から、新約時代の全体を蕩減復帰する七年路程を歩み、聖誕から四十年の蕩減路程を勝利することによってサタン分立路程を立て、ついに一九六〇年四月十一日、真のお母様と共に、神様から最初の真の父母として、栄光の聖婚式を行われるようになったのである。
1 二千年前に使命を果たすことができず、十字架で亡くなられたイエス様の願いを、二千年過ぎた今、私たちが果たさなければなりません。第一次でユダヤ民族を中心として成し遂げようとしてできなかったので、今、私たちが第二次としてキリスト教の世界的な版図を中心として、父と母の出会いを実現してさしあげなければなりません。このような基点をつくらなければ、神様の真の直系の息子、娘になれません。ですから、このような基準を連結させて合わせようとするのが再臨理想です。
再臨理想においてもまた、真の家庭があってこそ天道が出発するのであり、これがあってこそ真の愛と真の幸福が出発するのです。
2 故障したものは、元の状態に修理しなければなりません。世界も新しい世界、国も新しい国、民族も新しい民族、人も新しい人、息子も新しい息子、娘も新しい娘になることを願います。ですから、新しい息子であるイエス様が来られたので、新しい娘もいなければなりません。
ところが、新しい娘を探している途中で、イエス様は亡くなりました。宇宙の希望である一人の母を探して立てるためのイエス様の路程には、苦難も多く、迫害も多かったのです。あの村からこの村に、あの野からこの野に追われ、逃げて歩きながら迫害を受けた哀れなイエス様でした。ダビデの系統であるヨセフの家庭を中心として、み旨を立てようとしたイエス様が、家庭でみ旨を立てることができなくなることによって、家を出て三年の公生涯の道を歩んだのです。
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