韓半島は、東西洋文明を結ぶ橋の役割を果たしながら、再臨主が誕生できるよう準備してきた摂理的な地である。真のお父様のみ言によれば、「定州」は、神様の愛が地上に着陸できる基点であると同時に、神様があらかじめ定められた郡である。そして、真のお父様が誕生された上思里(サンサリ)は、天を欽慕して敬うという意味における代表的な地として位置づけられ、世界の聖地になるであろうと語られた。
9 アジアの東北地域に位置する韓半島は、現代文明を受け継ぎ得る地理的条件を備えた日本と接触できる位置にあります。大陸と接触する場合、大陸自体に直接接触するよりも、半島を経なければなりません。ですから、いつも文化交流の役割を果たす所は半島でした。そのような意味で、韓半島が東洋と西洋の文明を結実させ、結合させる橋梁の役割を果たしてきたのです。神様は、必ずそのような半島を中心として摂理されるので、この民族が、その文明を受け継いで収拾する役割をしてこなければなりません。終局において、文明は宗教を通して結実するのです。
10 メシヤは、いかなる国に来るのでしょうか。原理的観点から、その方は、独立した国に来ることはできません。なぜでしょうか。イスラエルの国と、その国を動かせるユダヤ教が基盤となってメシヤを迎えるべきだったのですが、メシヤを迎える立場になれなかったのです。ですから、イスラエルの国とユダヤ教は、国を失って追い払われていました。イエス様の立場から見ると、イエス様を迎えるべきその国と、その教会がなくなったも同然なので、イエス様は、相対する国と教会がない立場から出発するようになったのです。ですから、神様は歴史時代を通して、そのような立場にある一国を、再臨の一日と連結させる準備をせざるを得ません。
イスラエルの歴史が悲惨な分裂の歴史で出発したので、それを収拾するためには、最下の段階にある歴史的な国家を立てなければならないのです。歴史的に見るとき、そのような立場にある国が韓国です。韓民族は、地域的にも歴史的にも、ユダヤ民族と似た内容をたくさんもっています。
11 歴史的に見るとき、信仰心に燃えている民族は、どの民族でしょうか。「ハナニム(神様)」という言葉も聞くことができず(ユダヤ教、キリスト教のような宗教がなかったこと)、預言者や烈士のいかなる預言もないまま、五千年の歴史を保ってきた韓民族は、なぜか分かりませんが、天に対する信仰心が秀でているのです。東半球の、爪のように小さなこの国が、今まで幾多の時代を経て、五千年の歴史を保ってきたという事実は奇跡です。
韓国の歴史を見ると、周辺国から数百回にわたって侵犯される、危険な歴史路程を経てきました。それでも韓民族は、民族の気概として流れるその何かをもって希望の一日を望んできました。この極東の韓半島を動かしてきた希望の民族精神があったがゆえに、今まで闘ってこられたのです。このような精神をもって活動してきた民族に、メシヤが来ないでしょうか。
情的な面でも、極東では韓国人以上に情熱的な人々はいません。また、韓国は、東方礼儀の国と呼ばれてきました。信義の宗教、希望の宗教であると主張していた仏教も、儒教も、キリスト教も、今や限界にぶつかっています。しかし、韓国は、民族精神を中心として、世界理念に燃える隠れた情熱が、心から湧き上がっている民族です。
12 韓国は、五千年の歴史を経てくる間、今まで犠牲になってきました。中国に多大な影響を与えたのが韓国人です。韓国民族は東夷民族であり、本来、戦争を嫌い、平和を愛する民族です。ですから、中国大陸を捨てて半島に集まったのです。孔子も「そこに聖人が住む」と東夷民族をたたえながら、「東夷民族のところに行きたい」と言いました。
韓国の歴史を見ると、他国を侵略したことがありません。数多くの侵略を受けましたが、侵略をしたことがないというのです。その代わり、不義の攻撃を受けるときには、火のようになります。負けないというのです。それこそ正義に燃える民族です。満州やシベリアのような所を回りながら死んだ韓国人の亡骸(なきがら)を調べても、煙管(きせる)と火打ち石しかありません。他の国の人は刃物を持って歩きますが、韓国人にはそのようなものがありません。ですから、ロシアや中国のような国で、韓国人が夜に、「コリアンだ」と言いながら門をたたけば、ほとんどの人たちは門を開けて、「入りなさい」と歓迎するのです。そのような民族が暮らす国なので、お父様のような人が現れてくるのです。
13 お父様の故郷は、北朝鮮の平安北道定州です。そこについて語るべき話がたくさんあります。幼い頃の逸話がたくさんあるのです。今後、世界の人々が、そこをイスラームのマッカ(メッカ)や、キリスト教のエルサレムと同じように考えるようになるのです。
皆さんは、生きている間に、お父様の故郷に行ってみなければなりません。もし皆さんが、そこに行くことができずに霊界に行けば、「生きている時にいったい何をしていたのか」と後ろ指をさされるのです。
14 皆さんが「私は真の父母に侍った。出発から侍り、最後まで侍った」と言えてこそ、天国の民になり、天の国の皇族として現れ得るのです。ですから、父母様をお迎えし、出発した所に帰るのです。皆さんの故郷は本来、エデンです。真の父母様が生まれた所がエデンです。人間は、堕落によって故郷の地を失ってしまいました。ですから、真の父母がエデンの園の主人になるのです。真の父母が生まれた所が人類の故郷なので、皆さんの故郷も、父母様が生まれた所にならざるを得ません。
聖誕の前兆と名前の意味真のお父様の聖誕を前後し、多くの吉兆が現れた。一九一九年の三・一運動以前には、真のお父様の生家の前にあるねずの木に金鶏が止まり、鳴いて飛び去ったことがよくあったという話が伝わる。そして、曾祖父である文禎紇(ムンジョンフル)が一双の龍が海から昇天するという夢の啓示を受け、真のお父様の代の「行列」(ハンニョル)(一族間で、始祖から数えた男性の世代の上下関係を表す語。同じ行列の男性は、名前の一字に同じ漢字をもつ)の字を「龍」の字とし、「龍」の字と「明」の字をもって名前をつけたが、真のお父様は一九四五年、光復直後に公式摂理路程を出発されたあと、平壌における伝道時代に、その大きな摂理的使命にちなんで、天から「鮮」の字と「明」の字を新たに受け、改名された。
15 私の母は、私を身ごもり、出産の日が近づいた頃、実家に行きました。母の故郷である大山洞の前には、帝釈山という大きな山があります。四方から眺められる、一つの象徴的な山です。
母が、出産する日を待っていたある時、悪天候になって暴風が吹き、山と村全体が雲に覆われたそうです。そこに一筋の光が現れると、その帝釈山の頂上に黄金の龍が現れ、山腹を回りながら昇っていったというのです。母がそのあとを少し離れて追いかけ、山頂まで来たので座って喜んでいると、その頂上がたちまち海になったのです。その海に尾で水を打ちながら身をくねらせる黄金の龍が二頭現れ、「天下よ、達者でいなさい」と挨拶をすると、天に昇っていったそうです。
母はそのようなものを見たので、心の内に秘めておき、私が八歳の時、「どう見ても、お前が果たすべき責任のようだ」と言いながら、この話をしてくれました。み旨を知ってみると、天との約束の中で、そのようなことがすべて啓示されたというのです。母も啓示をたくさん受けました。特別なことが起きたり、家で難しい問題が起きたりすると、母が事前に察知して、それに備えるために精誠を尽くすという経歴があったのです。天と地が一つになった場で、すべての困難を解決したのだと考えることができます。
16 私の母が、私を呼んで話してくれたことが忘れられません。曽祖父の時も、祖父の時も、夢のお告げで龍を見て、同じ夢のお告げを嫁である母も見ました。「どうもお前がその実体ではないかと思う」と言って話してくれたことが忘れられないのです
母の実家の前にある帝釈山(チェソクサン)の上で、二頭の黄金の龍が如意宝珠(仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと)をくわえて昇天するのを見たそうです。それを母は、事実と考えたのです。昼間にどしゃぶりの雨が降っている時、山を見るとそのような現象が見えたというのです。
17 私の名前を見ると「鮮」の字があります。これは魚と羊ですが、海と陸地、水と地を意味します。ですから、のどかで明朗だという意味でもあります。夜、雨が降ったのち、朝が燦爛と輝けば鮮明です。「明」の字は日と月です。ですから、地ものどかで、天ものどかだという意味の二文字が合わさったのです。また、天は男性を意味し、地は女性を意味しますが、この二つが一つになったことを意味します。清く、明るく、明朗だということです。
そして、「文」というのは、真理を意味します。名前のとおりのことを私はしています。それで一生の間この名前を見ながら、「私は、このようにしなければならない。このようにしなければならない」と思ってきたのです。
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