真のお母様の父親である韓承運(ハンスンウン)氏は、一九〇九年一月二十日、父・韓炳健(ハンビョンゴン)と母・崔基炳(チェギビョン)のもと、五人兄弟の長男として生まれ、教鞭生活を送る中、一九四六年五月頃に南下した。そして、南下後はソウルと京畿道の小学校で奉職するなど、一九七四年二月まで、四十一年にわたって教育界で活躍した。洪順愛大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、篤実なキリスト教信仰をもった父・洪唯一(ホンユイル)と母・趙元模(チョ・ウォンモ)(一八八九年、陰暦十一月七日—一九六二年九月三日)のもと、一男一女の長女として、平安北道の定州で生まれた。母方の祖母、趙元模女史は、勤勉で活動的な新時代の女性だった。その先祖の中の一人である趙漢俊(チョハンヂュン)が、私財をはたいて平安北道定州の撻来江(タルレガン)に大きな石橋を造ったという話が伝わっている。
1 私(お母様)は、一九四三年、陰暦一月六日の明け方、平安南道の安州で生まれました。私の村は、都会から遠く離れた所ではありませんでした。家の裏には小さな山があり、小川が流れる、とても穏やかで、温かい感じを与える所でした。ちょうどめんどりがひなを抱くような感じです。裏庭には、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことを覚えています。お父様の故郷である定州と、私の故郷である安州の間には、川が一つあります。
2 私(お母様)の故郷である安州は、昔から軍事的にも政治的にも、とても重要な所でした。それで、平安道という地名は、平壌と安州から一文字ずつ取って付けられたのです。その地域は平野なので、農業に適していて、食べ物が豊富でした。古朝鮮の時期には、既に町を形成していたといいます。
そこを流れる清川江(チョンチョンガン)を中心として、平安北道と平安南道とに区分されますが、お父様の故郷である定州までは約六十キロメートルで、平壌までは七十五キロメートルほどです。大母様は、聖主教があった鉄山(チョルサン)まで行って、新しいみ言を求め続け、毎日のように精誠を尽くしましたが、鉄山は実に百二十キロメートルも離れている所でした。
3 真のお母様の母方の祖母である趙元模おばあさんは、趙漢俊の直系の子孫です。この趙氏は、国の名に使われる「趙」の字です。ですから、国の母になる方が大母様の母親でした。このように、伝統のある歴史がつながっています。それは実話です。
定州にある撻来江(タルレガン)の橋は、数十年過ぎても誰も修理せず、放っておいたために崩れだし、人が渡れなくなりました。その橋を通っていく道が塞がってしまったのです。そして、それを放っておいたので、洪水が起こって橋が崩れ、土砂が押し寄せてきて埋まってしまいました。
そこに預言がありました。「岩を削って撻来江の橋に立てたチャンスン(村の入り口に立てた村の守り神の像)のような標石が埋まってしまう日には、国がなくなり、現れる日には、韓国に新天地が広がる」という預言があったのです。
4 中国の使臣が韓国に来ようとすれば、定州にある撻来江を渡らなければならないのですが、その当時は橋がありませんでした。橋を架けるお金が国になかったのです。そこで国は、その橋を架けてくれる人物を探すために、公示文を貼り出しました。その時、私(お母様)の母方の先祖に当たる趙漢俊おじいさんが、私財をはたいて橋を架けたのです。橋は石橋でしたが、その下を船が通れるほど大きな橋だったといいます。そのおじいさんは、橋を造るのに全財産を使い果たし、銅銭三文だけが残ったそうです。それで、「あすは橋の竣工式に行く」と言って、その残ったお金でわらじを買っておいて眠りにつきました。すると夢の中に白い服を着たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それでお前の家門に天子を送ろうとしたが、残しておいた銅銭三文が天に引っ掛かったので王女を送ろう」と言ったというのです。その夢を見てから撻来江に行ってみると、その丘の上に石の弥勒仏ができていたといいます。
5 橋の竣工後、撻来江の河岸の土の中から、石の弥勒仏が勢いよく出てくると、村の人々は小屋を造って、雨風を浴びないようにしました。その弥勒仏が次第に大きくなり、屋根を突き破るようになると、改めて新しい小屋を造りました。ところが、不思議なことに、この弥勒仏はおなかがふっくらと出ていました。問題は、趙氏一族に生まれた娘たちもみな、弥勒仏のようにおなかが出て、結婚もしていない乙女が、妊娠していると誤解を受けたことです。それで、ふっくらと出ている(弥勒仏の)おなかを削ったところ、そこから血が出てきたそうです。石から血が出てきたのですから、不思議で霊妙でもあり、恐ろしくもなってきて、急いで石灰を塗って塞いだといいます。そして、馬に乗って弥勒仏のそばを通り過ぎるときは、馬から降りて礼を尽くさなければ、馬の足が地面にくっついて動かなくなる、という話も伝え聞きます。
このように、衷情(ちゅうじょう)に満ちた趙氏の家門を通して、天は趙元模おばあさんを送られたのです。そのように神様の環境創造が、その趙漢俊おじいさんの時から始まり、私(お母様)にまで連結されたのです。
6 お母様の母方の祖母は趙氏ですが、その趙氏たちが住んでいる所は、裕福な村でした。国の官職に携わった人たちが集まって住む、瓦ぶきの家が立ち並ぶ村です。そこに趙漢俊というおじいさんがいたのですが、お母様の母方の祖母が、その直系の子孫です。ですから、そのような伝統を中心として、母方の祖母と大母様が、お母様をとても愛しました。真心を込めてお母様を育てたのです。
大母様が、来られる主をお迎えしようと、八道江山(パルドガンサン:韓半島全土)を駆け回るのに忙しく、満足に家庭生活をすることができないので、母方の祖母がお母様を育ててくれました。そして、霊界についてのあらゆる秘密を、誰よりも知ろうとしたのがこの家門です。
7 母方の祖父である洪唯一おじいさんは、背が高くて美男子でした。初めてお父様にお会いした時も、容貌がそっくりで、同じ印象を受けたので、見知らぬ人のようには思えませんでした。それに、その時代に、嫁にハイヒールを買ってあげるほど、新しい考え方をもつおじいさんでした。
母方の祖母である趙元模おばあさんは、小さくて顔がきれいな上に、勤勉で活動的でした。勉学ばかりに多くの時間を割くことはできませんでしたが、当時としては新時代の教育を受けた女性であり、ミシン販売をされていました。ミシンを売ったあと、故障したミシンの修理もしたのです。
天の新婦を準備した韓民族真のお母様の本貫は、忠清北道の清州である。真のお父様のみ言によれば、「忠清」は「心の中心が清い」という意味であり、「清州」とは「清い郡」ということである。川や海の水が澄んでいれば、魚だけでなく、水底までのぞき見ることができるように、「心の中心が澄んだ道人になることを目標にして歩む人々が暮らす郡」という意味である。そして、清州韓氏(チョンヂュハンシ)の「韓」は、「韓国」を代表し、「宇宙」を代表する。また、「韓(ハン)」は「一(ハナ)」を意味するものとして、「一番」という意味もある。神様が、清州韓氏を通して天の新婦を準備されたのである。
8 韓国は、四千三百年の歴史をもち、その歴史の中に古朝鮮時代がありました。私たちの民族は、天文を研究して天の運勢を解き明かした東夷民族です。天文学の博士たちだったのです。韓国の歴史を見ると国教があったのですが、新羅時代と高麗時代には仏教、朝鮮時代には儒教でした。私たちの民族の起源を遡ると、古朝鮮以前に韓氏が住んでいたとい記録が出てきます。
9 私たちの国の歴史学者たちは、古朝鮮以前の時代に、檀君(ダングン)をお生みになった桓雄(ファヌン)が治める国があったと主張しています。
歴史の記録に出てくる「桓」は、昔の発音に従えば「韓」と表記します。ですから、桓雄と韓雄は同じ言葉です。もちろんこれを「神話だ」と言って中傷する人たちもいます。しかし、檀君神話には、韓民族を天孫民族として選んだ神様のみ意が込められています。その当時の遺物や関連資料も発掘されていて、それが事実であることを示しています。
「韓民族」という言葉や「大韓民国」という国号の根源を知っている人は、多くありません。その根源は「韓氏朝鮮」から見いだすことができます「韓氏朝鮮」と呼んだのです。私たちの民族が「韓民族」であり、私たちの国号が「大韓民国」となったのは、正にこの「韓」に由来しているというのです。結局、韓氏の先祖がこの国を建てたという話です。
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