12 私は、靴下を自分で編んで履き、服も自分で作って着ました。寒くなると、帽子も自分で作ってかぶります。私が姉たちに編み物を教えてあげました。皆さんもみ旨のためには、一人で暮らす準備もしなければなりません。パンツなども、綿布を持ってきて、型を取って作ってはけば、ぴったり合うようになっているのです。
母の足袋も作ってあげました。母が「おやまあ、いたずら半分に足袋を作っていると思ったら、足にぴったり合うわね!」と言うほどでした。そのようなことを、すべて研究しておかなければなりません。服も編んで着ることができなければならず、靴下や帽子も作れなければなりません。そうであってこそ、一人で暮らしても、み旨を成就することができるのです。
13 最近、私が懐かしく思う食べ物があります。私が食べたことのない料理がどこにあるでしょうか。世の中の有名だと言われる料理はすべて食べてみましたが、今でも一番懐かしいものは何だと思いますか。昔、田舎では「五月のじゃがいも峠」(じゃがいもが収穫される前の農家の食糧事情が悪化する春の端境期のこと)というものがありました。(普段は)じゃがいもばかり食べていたのですが、(その時期は)麦を収穫し、麦で御飯を作って食べました。麦飯も、最近の平麦飯ではなく丸麦飯です。その丸麦を水にふやかして炊いた御飯は、スプーンでぎゅっぎゅっと押してすくっても、粒がこぼれ落ちるのです。それにコチュジャンを混ぜて食べたことが思い出されます。それが今でも懐かしいのです。
他のものを混ぜるとおいしくないのです。ぴりぴりするほど辛いコチュジャンを混ぜて、薄赤い御飯を一口食べると、歯の間からぼろぼろと出てきます。それで口を閉じてもぐもぐと食べたのですが、そのことが今でも懐かしいのです。
14 田舎に行けば、本当におもしろくて、素晴らしいことがたくさんあります。そこであらゆることを研究し、材料を収集して、将来の大きな人生設計のために準備をするのです。私には、そのような経験がたくさんあります。
ですから、農村に行けば農作業もでき、海辺に行けば漁夫になって魚を捕ることもできます。私は網打ちをするにしても、明け方に出ていきます。どのみちやるのなら記録を出すのだ、という信念をもってするのです。明け方、一番鶏が鳴く頃に出掛けて、星が出るまでそれをして帰ってきます。私は常に、世界において何であっても、負けるのは駄目だという主義です。どこに行って何をするにしても、絶対に負けないという考えをもっています。ですから、人には絶対に負けません。私が精誠を尽くす時もそうです。
涙が多く情にあふれた少年真のお父様は、幼い頃から涙の多い方だった。この上なく情が深く、同情心の厚い少年だった。鳥や魚を捕まえ、家で育てているうちに死んでしまうと、親の立場を考えながら涙を流す、切ない童心の情を表された。弱い友達をいじめる人に立ち向かっていったこともあった。御飯を食べられない人がいるといううわさが耳に入れば、両親に隠れて、米の入った甕(かめ)から米を運んであげ、子供が生まれたのに食べる物がない家には、わかめと米を持っていってあげたこともあった。お祝いの日に新しい服も着ることができない貧しい立場にいる友達のために、深い温情を施された。
15 六歳を過ぎて七歳になれば、物心がつく頃です。学校に通う年の頃には、村にいる身重の女性たちのおなかがどれくらい膨れたら、いつ頃赤ん坊が生まれるか分かりました。私は、そのような女性たちについて調べ、米がなければ、一ヵ月前から米を持っていってあげました。妊娠した女性の家にわかめがなければ、わかめを買ってあげたりしました。
ですから、貧しく暮らす人たちは、すべての秘密を私に報告しました。そうなると、秋になれば、とにかく栗でも取って分けてあげたくなり、とうもろこしでも取ってその家に持っていってあげなければ、心が安まりません。そのような訓練をしたので、世界の人たちをみな、食べさせて生かそうとまで考えたというのです。
16 昔、村の中で、私の家は暮らし向きが良かったのです。満足に食べられず、貧しく暮らす村の友人が、弁当に粟飯や麦飯を入れてきて食べるのを見ると、取り替えて食べることはあっても、それを見て、何もせずに自分の御飯を食べることはできませんでした。
また、友人の両親が病気なのに、病院に行くお金がない時には、父や母のところに行って涙を流しながら、「私の友人の誰々の両親が病院に行けるよう、お金を下さい」と言いました。
年が十一歳くらいになった時、「米、大豆一斗(約十八キロ)を売って誰々を助けてあげるのだ」と父に宣布しました。そうして、父に内緒で一斗の米を担いで二里の道を歩いていったことが、今も思い出されます。縄や何かのひもでそれを結んで担いでいかなければならないのですが、そのまま担いでいくので、どれほど息がはずんだか、何度もハアハアと息が切れました。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないでしょう。そのすべてが、み旨のために歩むことができる立場に立たせたのです。
17 私は、冬に震えて通り過ぎる乞食を見れば、御飯も食べられず、眠ることもできませんでした。そのような性格でした。それで、父と母に、「部屋に入れて御飯を食べさせてから送り出してあげよう」と言いました。それが、天の愛する根本になり得るものではないでしょうか。
村で御飯を食べられない人がいるといううわさを聞いたならば、どうやって助けてあげようかと考えて、夜眠ることができませんでした。それで、私は両親に内緒で、米櫃{こめびつ)から米を取り出して分けてあげたりもしました。
18 私は餅が好きでした。私が母に「餅を作ってほしい」と言うと、母は「畑仕事もしなければいけないし、息子や娘を結婚させようと思えば、反物も織らないといけない。だから忙しい」と言って、作ってくれません。休む間もない忙しい母でした。それなのに、しきりに「食べ物を作ってほしい」と言うので、簡単な小豆餅や蒸し餅のようなものを作ってくれるのですが、大きな蒸し器に餅を作っておくと、それが三日ももちません。すべて分けてあげるのです。
村で心配なことがあれば眠れません。それをよく考えてみると、天がそのような心情を指導したのではないかと感じるのです。村に貧しく暮らす人がいたりすると、どうにかして良い暮らしができるようにしてあげたいと思うのです。村で何か起きれば、それを人ごとではなく、自分のこどのように思ってするのです。心根がこのようになっていなければなりません。天性がそうでなければなりません。川上の水が澄んでいてこそ、川下も澄んだ水になるのです。人は霊的な存在なので、そのように生きてこそ、他の人たちがその人を頼りにして暮らしたいと思うのです。
19 私が幼い頃、我が家では数百箱規模の養蜂をしていました。養蜂をするときには、巣板をぴったり付けておくと、そこに蜂が巣を作って蜜の貯蔵所を作ります。巣は自分で作るというのです。その巣板は高価なものです。それをキャビネットのような所に積んでおくのですが、それを見つけて、(蜜蠟を)すべてこねるのです。
田舎に行くと、油がなくて明かりをともせない家があります。そのような家には、石油はあげられなくても、ろうそくの火だけでもつけられるように、それをあげました。そうしないと心が落ち着かず、我慢できないのです。ですから、(蜜蠟を)すべてこねて、一つ一つ配給してあげました。
私は世間知らずだったので、その当時のお金にするといくらになるか分かりませんでした。それで結局、父にひどく叱られました。ひどく叱られましたが、絶対に「間違っていた」という言葉は口にしません。父も、結局は途中で諦めて叱るのをやめてしまうのです。
20 ある障害者の夫婦がいました。男性は目が見えず、夫人は体に障害がありました。この夫婦は、村中で模範的な夫婦でした。夫人がいつも足を引きながら杖をついて夫を案内してあげるのです。口も曲がり、様々な障害をもっているのですが、夫はこの上なくその夫人を愛していました。冬になると、どこにも住む所がないので、必ずうちの精米所を訪ねてくるのです。
すると、むしろしかないので、私が布団を持っていってあげ、毛布も持っていってあげたりしました。それで、私のことを随分と気に入ってくれていました。そうこうするうちに、彼らが死んだという話を聞き、悲しくて泣いたことが思い出されます。
21 私も皆さんのように、はつらつとして希望にあふれた青春時代がありました。私は、このみ旨を知る前からかわいそうな人の友達になろうと考えていました。貧しく暮らす人に関心をもちました。子供たちがいても、裕福で力のある家の子供たちとは親しくしようとしませんでした。反対の生活をしたのです。村に御飯を食べられない貧しい人がいれば、私は寝るのも忘れてそれを解決してあげようとしました。こうしてすべての人と友達になって、すべての人の友達以上の道を行かなくてはならないと考えたのです。
不撓不屈の性格と予見能力真のお父様は、幼い頃から一つのことをとことんまで突き詰める性格と、決して屈しない勝負根性の持ち主だった。正しいと判断すれば、絶対に先延ばしにしたり、待ったりせず、即座に行動に移された。このように幼少時代は、神様の救援摂理を完成すべき真の父母となるための資質と禀性を育てる期間だった。そして、真のお父様は、幼少時代から近隣の人々の病苦と災難を予見するなど、特別な霊力を見せ、周囲の人々を驚かせた。
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