15 統一教会の歴史を訪ねていく人は、黒石洞を訪ねざるを得ません。黒石洞が白石洞(ペクソクドン)になるのです。私が昔、暮らしていた暗い谷間のような所が、世界万民に明るい日の光を照らしてくれる伝統の基地にならなければなりません。ノドゥル(漢江の南にある地域の昔の地名)もそこにあります。しかし、昔の姿が今は一つもありません。
昔、その時代に黒石洞で暮らしていた人には会えませんが、子孫たちが大勢います。その父母と関わりのある私が、彼らと会えば、どれほど感激的でしょうか。そうなれば、そこから歴史が復活します。昔のことを語りながら、歴史を復活させて、時代を花咲かせるのです。
16 私が今でも忘れられないことがあります。私が黒石洞に住んでいた頃、上道洞(サンドドン)に越えていく所に松の木が生い茂っていて、その向こうには草花を育てている日本家屋がありました。そちらの方に回っていくと田んぼがあり、その向こうに村があるのですが、そこに開拓伝道のために通った家がありました。
ある時、見知らぬ人が病で道に倒れていました。それは、新学期が始まり、学費を持ってきた時だったので、三月末頃でした。よくよく聞くと、その人は息子のいないかわいそうな人でした。「天安(チョナン)に自分の娘の家がある」と言うので、私が学費をすべてはたいて、旅費と病気の治療費まですべて出してあげました。その時、私の足が離れませんでした。背を向けられなかったのです。そのようなことを見ると、その人の先祖は悪くない先祖なのです。
ですから、私が財布にあった、本を買うお金と下宿代をすべて持たせて行かせたのです。そこから三キロメートルほど背負っていったことが、ついきのうのこどのように思い出されます。
そのような人と天が会わせてくださったのなら、天が「同情してあげなさい」と言われる以上に同情してあげたからといって、絶対に損にはなりません。天が十くらい助けてあげなさいと言うことに、百くらい助けてあげるようになれば、九十は、私が天のみ前に功績を積んだものとして扱われるのです。天が十くらい助けることを望んでいるのに、五だけ助けてあげるのではいけません。天が十くらい助けてあげることを望むときは、十以上助けてあげなければならないのであって、十未満ならば、皆さんの恩恵の道が塞がってしまうのです。それが原則です。公式がそのようになっています。
17 私は、おなかがすかない日がありませんでした。お金がないからではありません。四月初旬に家から学費が送られてくると、五月にはすべて使ってしまいます。すべてかわいそうな人に分けてあげるのです。そのようなことが多かったというのです。そうして何をするのかというと、新聞配達をしたり、物を売ったり、何でもするのです。蕩減の道を行かなければなりません。また、平安道の故郷を離れてソウルにやって来て、言葉にも慣れず、風習にも慣れず、最初の夏休みがどれほど待ち遠しかったか分かりません。
母が私のことをどれほど愛したか分かりません。み旨を知ってからは、その母をどのようにして振り切るかというのです。また、妹たちはお父様のことを愛しています。それをどのようにして引き離すかというのです。ですから、その父や母が現在の立場で望む道とは、反対の行動を取らなければなりません。それで、夏休みに入った日、すべての学生たちが自分の故郷に帰るといって町が慌ただしく、学校が慌ただしくなっているにもかかわらず、一人、部屋に鍵をかけ、「私は、今からこの部屋で、誰々や誰々が帰ってくるまで、私のすべきことをするのだ」と言って、休みの期間を過ごしたのです。
18 すべての人は、宇宙を主管することを願っていますが、自己主管もできていません。それで、お父様は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と言ったのです。まず、食欲から主管しなければなりません。食欲は、断食によって克服できます。一週間は問題ではありません。普通の人であれば死地を越えてしまう、そのような境地の訓練を受けなければなりません。
空腹を克服しなければならないのです。日本統治下で自炊生活をしていたとき、米が貴重だったので、友人たちは先を争って御飯をもっと食べようとしていましたが、お父様は、そのようにしませんでした。さじと箸を先に置く人が、あとに置く人の主人になります。原則がそのようになっています。お父様の生活は、毎日が新しいのです。きょうよりあすが新しくなければなりません。天は新しいことを願っていると信じて、実践してきたのです。そのようにしたところ、誰も成し遂げられない世界的な版図を備えるようになったのです。
19 私は、物心がつく頃から昼食を食べませんでした。国もない立場で、三食欠かさず食べる資格があるかと思ったからです。御飯が慕わしくなる生活を本当にたくさんしました。御飯を慕うより、民族を慕う道を行きました。「御飯より民族と国をもっと愛さなければならない」と考え、故郷を離れてソウルにいる時は昼食を食べなかったのです。そのような生活をしました。ポケットにお金がなかったわけではありません。お金があれば、貧しい人たちに分けてあげたのです。
20 私は、一日に四時間以上眠りません。それが習慣になりました。忙しい時は、一日一時間だけでも構いません。眠ることにおいて、人類歴史の中で一番短く眠る代表者が私だと思います。一生をそのように暮らしてきました。また、私ほどひもじい思いをした人はいないはずです。御飯がないわけではありません。おなかをすかせた人々の、救いの手を願い、解放を願う叫び声が聞こえてくるので、御飯を食べることができないのです。
三十歳までは、昼食を抜いて二食だけ食べる二食主義でした。一日に御飯を五杯食べても軽く消化して余りある壮健な体格の人が、二杯も食べずに青春を過ごしました。御飯に対する慕わしさよりも、愛することを優先させる訓練をして、神様を愛し、国を愛する生活の基準を立てようと努力してきたのです。
21 私は、どこに行っても涙を流しながら祈る立場にいたので、その事情が何か知らないのに、同情する人たちがたくさんいました。また、皆さんが私に接するように、行く先々でそのように接してくれる人たちがたくさんいました。下宿先の主人のおばさんは、祝祭日のような時に夜通し準備した料理、あるいは夫のために準備した料理を、私がいる部屋に持ってこなければ自分の部屋に戻れないということもありました。何もせずに自分の部屋に戻ると、突然目の前が真っ暗になるというのです。自分たちも、どういうことか分からないのです。神様は、女性たちの精誠を込めたその料理までも、私に食べさせるために、彼女たちの心を動かしたのです。そのような役事(働き)がたくさんありました。
ですから、私は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。千回、万回、この身が砕け、骨が粉と化すことがあったとしても、忘れることができません。過ぎ去った歴史過程において、神様は、私がいかなる場にいようと共にいてくださり、私のためにそれほどまでに苦労してくださったのです。
22 祈るときは、背が曲がり、膝にたこができるほど祈らなければなりません。私の膝には、祈りながらできた昔のたこが今でも残っています。祈りは床の上でしなければなりません。涙も流さなければならないというのです。私は、祈りながら流した涙の跡が乾かないほど、涙を流す境地を何度も越えた人です。流れていく男ではありません。
23 復帰の道は、たやすいものではありません。私は皆さんのように食べて、寝て、気楽でいたでしょうか。「原理」自体が、どれほど深刻でしょうか。私は、祈るために膝にたこができました。どれほど多くの涙を流したか分かりません。人生の行く道を解決できずに死んでいく人々が大勢いることを知り、それを解決するために、常に目を赤くして祈りました。祈りながらあまりにも涙を流しすぎて、日の光も見られないほどになることもありました。そのようなことをしながら、この道を尋ねてきたのです。
24 皆さんは、毎日のように祈らなければなりません。祈祷生活においても、一日の十分の一を捧げなければならないのです。(一日の)十分の一に当たる二時間二十四分は、毎日祈らなければなりません。私が最も長く祈った時は、身を伏せて十七時間、十八時間、普通でも十二時間祈りました。昼食は食べません。そうして痛哭するのです。そのようにしなければ、生きていくことができません。四方が完全に塞がれて出口がないときは、祈って初めて針の穴ほどのものが見えるのです。
そのような試練の過程を経て「原理」を探し出しました。皆さんは「原理」の本を握りしめて泣いたことがありますか。一生は大切なものです。一度過ぎ去れば二度とやって来ません。結婚して息子、娘を生み、荷物を背負って、リヤカーを引いてあくせくしているうちに、そのまま終わってしまうのです。深刻です。そのように生きていては、善の世界はやって来ません。
Create your
podcast in
minutes
It is Free