真のお母様は、洪順愛(ホンスネ)大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念するにつれ、幼少時代を主に母の実家で過ごされた。そうして、外祖母である趙元模(チョ・ウォンモ)女史と大母様を通して、信仰の精髄を習得されたのである。大母様は、真のお母様が以北(現在の北朝鮮)にいらっしゃった六歳の時まで、サタンがあらゆる方法を用いて危害を加えようと付いて回るのを、夢の啓示を通してたびたび目撃し、乳母のような立場で、精誠を尽くして真のお母様を養育した。したがって、真のお母様は、天の新婦としてお立ちになるまで、大母様と共に苦難の道を歩まざるを得なかったのである。
1 私(お母様)が生まれてから一ヵ月ほどたって、大母様の夢に「新しい主」、金聖道おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れました。そして、「順愛、その赤ん坊のために心配しただろう。心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、あなたは乳母と同じである。お乳だけしっかり飲ませて養育しなさい」と語られました。大母様は、その命令を心にしっかりと刻んで生きていきました。私は幼少の時、普通の赤ん坊とは違いました。一歳になる前に歩き、言葉まで話しました。一言一言、非常にはっきりと話したのです。ですから、母方の祖母も、「この子はやはり違う」と言ったといいます。そのように賢く、少しも欠けた所がなかったというのです。
2 母方の祖母の趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で一貫した生涯を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の枠にはまった信仰ではなく、二十四時間すべてを天のみ前に奉仕し、主を迎えるための準備に、この上ない精誠を尽くされました。
大母様は、そのような信仰生活を送ったので、ほとんど家にいらっしゃらず、私(お母様)は幼い頃、主に祖母と一緒に多くの時間を過ごしました。それで、祖母を通して、自然に、かつ当然のように信仰を受け入れるようになったのです。
3 母方の祖母は、私(お母様)に対する天のみ旨を御存じで、私が世の中に染まらず、純粋に育って天のみ前に用いられ得る貴い娘として成長できるよう、多くの精誠を注がれました。祖母は、いつも私に「お前の父親は天のお父様だ」と言われました。ですから、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様のことを思うと、いつも心が温かくなるように感じました。また、外的に見ればすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私のことを包んでくれているような感じがあり、常にゆとりのある心で過ごしていました。
大母様や祖母にも、肉身の父親に関してや、お二人がどうしてこのような生活をしているのかなどといった質問は、全くしませんでした。肉身の父母に対する恨みや不満は、私の人生には全くなかったのです。
4 私(お母様)は、六歳(数え)の時まで平安南道の安州で過ごしましたが、その六年間、大母様の夢にはいつもサタンが現れ、私の命を奪おうとして付きまといました。ですから、大母様は、サタンと六年間、闘い続けられたのです。それでも深い意味は分からないまま、「なぜサタンがこれほどまでに追い回しながら、この子の命を奪おうとするのだろうか」と、ただ不思議に思っていたそうです。
5 大母様は、新イエス教会と聖主教を訪ね回り、最後は腹中教で、再臨主が来られることを待ち望みながら祈りに没頭しました。当時、私(お母様)は数えの四歳ぐらいでしたが、私も大母様に従って敬拝を捧げるなど、精誠を一緒に捧げました。朝と晩には公式的な敬拝の時間があり、各自、黙想祈祷を捧げつつ、たびたび敬拝を捧げました。以南(現在の大韓民国)に下ってきた数えの六歳まで、その生活は変わりませんでした。
6 私(お母様)の幼少時代は、主の花嫁になる者として聖別するための期間だったと思います。本来、私の性格は外向的ではなく、世の中から離れて、自分自身の世界を楽しむほうでした。真のお父様も、趙元模おばあさんや大母様について、天情の道理を私に引き継がせるために骨身を削るのも意に介さず、一片丹心、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったと語られたことがあります。そして、ありとあらゆる誘惑の環境に触れさせないようにするため、天が私を世の中から離して聖別生活をさせたのであると語られました。
南下後、戦争と受難を克服外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と真のお母様は、腹中教に行き来された一九四八年、北朝鮮の共産党当局の宗教弾圧により、十一日間、共に収監された。このように、共産党が次第に猛威を振るうようになるや、趙元模女史は、「以南に行こう」と提案した。その頃、「以南に行きなさい」という天の啓示があった。以南は、三人にとって非常に不慣れな場所だったが、ちょうど、鉄山・聖主教の金聖道の長男の鄭錫天(チョンソクチョン)が先に南に行ったという話を聞いたため、彼を訪ねていこうと決心した。また、大母様の弟の洪順貞(ホンスンヂョン)は、日本留学中、戦時状況に伴って中途帰国することになり、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けたのち、中尉として任官し、軍に服務中であった。その弟に会うことも兼ねて、三人は一九四八年、真夜中に出発し、死線を越えて、千辛万苦の末、南に渡ったのである。
7 私(お母様)が安州に住んでいた時、大母様は信仰的惰熱ゆえに、ほとんど家を空けていました。そのような状況だったので、私は常に、母方の家族たちが面倒を見てくれる中で育ちました。キリスト教を信仰していた父は、共産党当局の脅威を避けて、一九四六年、やむなく先に南へと下りました。その頃、父が家に訪ねてきて、大母様に「一緒に行こう」と言ったことをかすかに覚えています。
8 共産治下で信仰をもつことはとても困難でした。趙元模おばあさんは、韓国にいる息子の洪順貞氏に会うため、大母様と私(お母様)と共に南下の途に就きました。私たち三代の母子は、南下する途中でも、主に向かって敬拝を捧げました。洪唯一おじいさんは、平壌がエデン宮であるという啓示を受けて、これを守るために残られ、それ以降、会うことはできませんでした。
9 私(お母様)が南に下る道は容易ではありませんでした。すき返した田畑に沿って歩いていこうとするので、足を取られ、寒さに震えながら南へ南へと移動しました。私たち一行が、やっとのことで三十八度線の近くに到着した時のことです。物々しく警備に就いていた北の人民軍に捕まってしまったのです。彼らは、私たちを空き家の物置に閉じ込めました。そこには、既に捕まった人たちがいました。人民軍は、男性には乱暴に対しましたが、女性と子供にはきつく接することはありませんでした。
大人たちは、寒さに震えながら歩哨(ほしょう)に立っている人民軍に食べ物を持っていってあげなさいと、私を使いに行かせました。私は震える心を抑え、笑顔で食べ物を人民軍に渡しました。何度かそのようにしたところ、人民軍の人たちの心がとても穏やかになりました。ある日の夜、人民軍が、「故郷に帰りなさい」と言って私たちを解放してくれました。生死の岐路において、温かい愛の力が生命の道へと導いてくれたのです。
10 母方の祖母は、私(お母様)といつも一緒にいらっしゃったのですが、祖母と通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、当時は、人々があまり出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩き回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、多くの愛を受けました。韓国に下ってくる過程でも、子供や女性たちの中に幼い私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
やっとのことで三十八度線を越えたばかりの時でした。韓国の軍人たちが人の気配に気づき、こちらに銃口を向けて撃とうとした瞬間、私が歌を歌ったのです。すると、軍人たちはその歌声を聞いて銃口を下げました。そして、私たちを温かく迎えてくれたのです。「こんなにかわいい娘さんを連れてくるとは、大変な苦労だったでしょう」と言って、南側へと導いてくれました。
11 大母様が腹中教に通っていた頃に、母方の叔父である洪順貞氏が日本留学から戻り、南に下って軍に入隊しました。叔父は知識人で、とてもおしゃれな方でした。当時、知識人たちの間では、共産主義理論に同調する人がたくさんいました。叔父もまた共産主義思想が良いと思っていましたが、理論とは違う北朝鮮の共産体制を見て失望しました。理論と矛盾する体制を見て、親がいる北には行かず、南に行って軍に入隊したのです。
(その後、)母方の祖母が、軍隊にいる叔父にどうしても会いたいというので、大母様と私(お母様)と一緒に、叔父に会うために南下したのです。その時からソウルにとどまり続けることになりました。
南下した当初はソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)にいました。そこで小学校にも入学しました。その後、私は行く先々で羨望の的になり、周囲の大勢の人たちから愛されて育ちました。もし私が早く結婚しなければ、この世に奪われる可能性が高かったので、幼い年で聖婚させて、天が先に私を抱かれたのではないかと思いました。
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