聖主教の金聖道は、長男の鄭錫天(チョンソクチョン)に、「神様が任せてくださったこのみ旨を、私が成就できなければ、他の人を通してでも成し遂げる。その代身者も、私と同じように淫乱集団として誤解され、迫害を受け、獄中での苦しみを味わうだろう。そのような教会が現れれば、真実の教会であると思って、訪ねていきなさい」という遺言を残した。そのため、鄭錫天は、姉の鄭錫溫(チョンソゴン)と共に、母親の代でこのみ旨が成し遂げられなくても、次の代、あるいはその次の代になれば、必ず成し遂げられると信じ、南下したあと、家庭で熱心に礼拝を捧げながら、このみ旨が成し遂げられているところを探し回った。その頃、新聞に報道された梨花女子大学退学事件の記事を読み、鄭錫溫が娘と共に奨忠洞(チャンチュンドン)のソウル統一教会を訪ねるようになった。その後、真のお父様は、一九五五年十月四日、西大門刑務所から無罪で釈放されたのち、鄭錫天の消息を聞き、大邱の東城路(トンソンノ)にある鄭氏の家を自ら訪問された。これにより、のちに大母様と真のお母様が、真のお父様に出会うことになったのである。
10 真のお父様が西大門刑務所から出監され、復興会の激励のために大邱に来られた一九五五年十一月頃、春川にいらっしゃった大母様は、鄭錫天氏から手紙を受け取りました。聖主教とそっくりな教会がソウルにあるというのです。そして、真のお父様が今、大邱に来てみ言を語られるから、早く来て聞きなさいということでした。しかし、大母様は、事情があってすぐには大邱に行くことができず、翌月、十二月に行かれました。大母様が大邱に行くと、鄭錫天氏は、「ようやく主を探し出しました。腹中教で服を準備してお迎えしようとしていた方を、ようやく探し出したのです。その方が、大邱に来てみ言を語られました」と語り、その方が既にソウルに上京されたと伝えました。また、腹中教で教えていたことと全く同じことを教えていると話しました。大母様は、今からソウルに上京すれば、お慕いしていた方にお会いできるという思いでうれしくもありましたが、なぜかしきりに不足さばかりを感じたといいます。このように、心の準備をしていると、その日の晩、黄金の龍が一双、ソウルの方に向かってひれ伏している夢を見たのです。大母様は心の中で、「大邱に来る時は白い龍を見たが、大邱を発とうとする時には黄金の龍が一双現れるとは、本当に不思議だ」と思ったといいます。そして、すぐにソウルに上京し、青坡洞一街の旧本部教会で真のお父様にお会いして、挨拶をお捧げしました。驚くべきことにその方は、腹中教時代に二回夢でお会いした、正にその姿であり、夢にまで慕い求めた主の姿だったのです。大母様は、あまりにも畏れ多い気持ちになり、身の置き場がなかったといいます。
11 私(お母様)は、北朝鮮ではお父様にお会いすることができず、南に下ったのち、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は満十三歳で、小学校を終えたあとでした。当時は、大母様と共に入教してから、いくらもたっていない時でした。その頃、私は江原道の春川に住んでおり、お父様はソウルにいらっしゃったため、互いに遠く離れていました。一九五六年三月、大母様に連れられて青坡洞教会に行き、初めてお父様にお会いしたのです。私は、お父様と出会ったあと、青坡洞教会に通いながら中学校を卒業し、高校に進学しました。
12 お父様が学生服を着た私(お母様)を御覧になったのちに、じっと目を閉じて感嘆されたことが、今も記憶にはっきりと残っています。すべては天が準備なさっていたと常に感じます。私の性格から見ても、生きてきた背景から見てもそうです。
イサクがアブラハムと、祭物を捧げるために山に登っていく時、アブラハムに「祭物はどこにあるのですか」と尋ねるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」とだけ言いました。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。
それと同じように、私も、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼い頃からしていました。再臨主の相対として準備された自分であることを、それとなく感じていたように思います。
私は、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついたのです。他の女性であれば耐え難い立場でしたが、私はすべてのことに打ち勝ってきました。
13 皆さんは、お父様が聖婚を決心されて、初めて私(お母様)に出会った時、最初の会話がどのような内容だったのか、最も気になるでしょう。当時の食口たちはみな、お父様のことを慕っていましたが、同時に近寄り難く感じてもいました。しかし、私は近寄り難いとは思いませんでした。私が何を言っても怒ることがないといった印象で、まるで私の母方の祖父にお会いしているかのように感じました。
周辺の人たちの中には、恐らく「あの人(お母様)は、年は幼いがとても肝が据わっている」と感じていた人もいたと思います。私は当時、祖父のようにも感じ、父のようにも感じ、そして、夫のようにも感じ、兄のようにも感じ、息子のようにも感じたのです。
14 アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落しましたが、私(お母様)は、「神様が警告しなかったとしても、当時は神様と一問一答していた時代なので、本心の作用によってみ言を守れたのではないだろうか」と考えたこともあります。私は、神様の摂理歴史を思いながら成長してきました。私が満十七歳でお父様に出会った時、「神様が大変な苦労をして歩んでこられた蕩減復帰摂理歴史を、私の代で終わらせる。私が終わらせる」と自ら決心しました。私は、そのような内容を誰かに教育されたわけではありませんが、そのような決心をしたのです。そのように決心することができたのは、私が神様を知ったからです。
15 私(お母様)は、お父様に会った時、摂理歴史を知りました。「原理」を勉強したわけでもないのに、蕩減復帰摂理歴史が分かったのです。ですから、私は、「お父様が再臨主として使命を完成、完結したと宣言するためには、私の力が絶対的に必要だ。私は誰にも任せることなく、私自ら責任を果たす。私が生きている限り、このみ旨は発展し、成功する。サタンを必ず追い払う」と決心しました。このために、私は心と体をすべて捧げて犠牲になったのです。
韓国における信仰生活真のお母様は、外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と共に、一九四八年に南下されたあと、ソウルと大邱、西帰浦、春川などの地を転々としながら、信仰生活をされた。大母様が、大邱で過ごしていたとき、見知らぬ一人の男性が真のお母様を見て、「天地において貴い娘」と証をするなど、真のお母様はどこに行っても注目の的であり、多くの霊的な証を受けられた。
16 聖主教の金聖道氏は、獄中の苦難に遭ったあとに他界し、残った家族が中心となって命脈を保ち、許浩彬氏を中心とした腹中教がそのあとを継ぎました。しかし、聖主教は、北朝鮮の共産党治下で定着することができなくなりました。特に、金聖道氏の長男の鄭錫天氏は、南に下り、鉱山事業をしばらくしたあと、大邱の東城路(トンソンノ)に家を構え、米と石油の商売を始めました。その大邱で、六・二五動乱を経る中、鄭氏の家族と大母様の一行が出会うことになったのです。大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし、「私たちが北朝鮮にいたとき、聖主教の新しい主(金聖道氏)と腹中教の許浩彬氏を通して多くの恵みを受け、大きな役事(働き)が起きました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、この道を探し求めるため、集まって一生懸命に祈りましょうと、心を合わせました。鄭氏の姉である鄭錫溫(チョンソゴン)氏も、釜山から来るようにさせ、大母様は、大勢の食口たちと共に、熱心に祈りながら信仰生活をしていくようになりました。
17 大母様が大邱で小さな店を出していたある日、笠をかぶった通りすがりの道人が、小学生だった幼い私(お母様)を見て、驚くべき証をしました。「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。数えの十七歳になれば、年の差が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産をもつ富者として暮らすでしょう」と言うのです。
大母様がその言葉を聞いて驚き、どういうことかと尋ねると、(その人は)「生まれる時から、そのような運命に生まれたのです」と言いました。大母様は、その言葉を聞いてから、真理のみ言を求めて、さらに一生懸命に信仰しなければならないと決心されました。そして、「再臨主に出会うまでは、世俗に染まらないよう、正しく育てなければならない」と考え、済州道に行って生食をするなど、厳しい霊的な鍛錬生活をされました。
その後、真のお父様に出会ってからは、私を統一教会の重要な働き手として育てようと思われました。そのように、一つのほこりも付かないようにされたのです。それほど、天のみ旨に捧げるための摂理には、極端で、かつ涙ぐましい事情が秘められていたのです。
18 趙元模おばあさんは、家庭礼拝を捧げながら聖別された生活を送り、私(お母様)に聖書の話もたくさん聞かせてくださいました。大母様は、聖書を熱心に奉読し、真心を尽くして信仰生活をされたため、私の周辺には常に聖書がありました。私は、自然に聖書を読むようになり、天の父母様が導かれる生活をしました。このような生活は、大邱に避難した時や動乱後、済州道と春川に転校してからも、そのまま続きました。大邱で教会学校に通う時は、学生代表として歌もよく歌いました。
19 大母様は、避難していた大邱で聖主教の金聖道氏の長男である鄭錫天氏に会ったのち、新しい主が韓国に来られるという信仰をもって祈りに励み、松葉を食べる生食をしながら暮らしました。
当時、小学生だった私(お母様)は、かわいらしくて勉強もできたので、周囲の人々に人気がありました。しかし、大母様は、私が注目の的になることを負担に思われました。私について「主の娘」という啓示や証がたくさんあったからです。結局、大母様は、再臨主に出会うため、一九五四年に済州島に渡っていかれました。私は、ひどい船酔いで苦労したことが思い出されます。
20 大母様の関心は、いつも「天の花嫁である」という祝祷を受けた私(お母様)を、世俗に染まらず純粋に成長させることに集中していました。「六・二五動乱」が終わった翌年、混乱した地を離れ、済州道で約九ヵ月間過ごしました。当時、済州道には、聖主教の金聖道おばあさんの次男、鄭ソクチン(鄭平和-チョンピョンファ)氏がいました。その人は、イエス様の苦難を体恤するために、茨の冠をかぶって十字架の苦痛を再現するほど、熱烈な信仰をもった人でした。
大母様は、その方と共に、より一層篤実な信仰生活に励みました。昼は畑を耕して生食をしながら、夜は祈りと精誠を尽くす日々でした。
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