真のお父様は、ソウルの黒石洞(フクソクトン)時代の初期、日本統治体制の影響下にあった教会の独善的教会行政と教理中心の信仰形態に異を唱え、韓国的聖霊運動を主導したペンテコステ教会と交流をもたれた。そして、西氷庫(ソビンゴ)ペンテコステ教会に通われ、一九三九年の秋、黒石洞に新イエス教会を建てるに当たって、主導的な役割を果たされた。平壌から李浩彬、朴在奉(パクチェポン)牧師が頻繁に訪ねてきて、復興会と聖書写経会を行ったときには、そこに同参され、彼らと深い交流をもたれた。そして、新イエス教会の教会学校の生徒たちを格別な愛情で指導され、長期の休みの際に平壌に行けば、教会学校で説教をされた。
25 私は、学校に通いながら教会学校の学生たちも指導しました。黒石洞教会でも、西氷庫教会でも、そのようにしました。当時は、夜になると寒いので、漢江が凍り、水の割れる音がしました。一人でいると恐ろしいのです。そのような漢江を渡りながら、西氷庫教会の教会学校の学生たちを指導しました。私は、教会学校の学生たちを上手に指導したのです。涙を流しながら話をしました。
一度そのように泣きながら話をしてあげれば、学生たちがもう十分だと言うはずなのに、追いかけてきて「また話してほしい」と言うのです。
26 私は、三人の友達と力を合わせて、ソウルの黒石洞に明水台・新イエス教会を造りました。私が学費をはたいて投資したのです。今も教会の跡は、すべて残っています。そして、新しい教会が始まる前、多くの人々をそこに連結させるために、西氷庫を中心として伝道したことが思い出されます。冬になると漢江がかちかちに凍り、水面の氷が割れて、とても恐ろしい音がしました。恨の多い歴史時代でしたが、思い出もたくさんあります。
27 私は、幼い子供にも敬拝した人です。三歳の子供を天の王子のように思い、精誠の限りを尽くして侍りました。私は、公証できる内外のあらゆる歴史的勝利の基台を築いて話すのです。幼い子供から勝利してきました。これを三代以上できなければなりません。そのような伝統をもたなければならないのです。幼い子供たちを私自身の希望の相対とみなし、教会学校の学生たちを指導した名指導員です。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちが、学校にも行かずに、私のあとを付いて回ろうとしたのです。カインを愛する歴史を開拓することが私の使命だからです。
28 李浩彬牧師、朴在奉牧師、韓俊明(ハンヂュンミョン)牧師が新イエス教会の主な責任者でした。それで、彼らが建てた平壌の新イエス教会には、数千人の学生がいました。その教会は名が知れ渡っており、教会堂も非常に立派に建てられていました。
私が教会に寄るときは、いつも学生会に責任をもち、指導しました。それで教会学校の学生たちを指導することで私は有名になりました。ですから、教会の牧師たちをよく知っていて、また青少年を中心に有名になったので、誰もが自分の家に私を招待しようとしました。
29 私は、平壌にある新イエス教会の李浩彬牧師、韓俊明牧師、朴在奉牧師に対する秘密の内容を、誰よりもよく知っています。
彼らに、「あなたはこのような召命的責任を中心として、このように生きることを分かっているのですか」と尋ねると、答えられなかったのです。「そのような行動をしてはいけない」と忠告しました。ですから、私のことを最も恐れたのです。旧約・新約聖書の秘密をすべて知っていました。
学生だった私がそこに立ち寄れば、数千人の教会学校の学生たちが、「話をしてほしい」と私のところに来るほど、有名な学生指導者でした。子供たちがすっかり夢中になり、私が帰るときは、停留場にあまりにも多くの人が集まるので、牧師たちがみな、防御線を張って私を保護しました。ですから、その三人の牧師は、いつでも私の言うことを聞くのです。
第四節 日本留学と原理の究明 神様解放の志を抱いて
真のお父様は、未来の摂理のためにより大きく、広く準備しようと、日本留学に旅立たれた。一九四一年三月三十一日、京釜(キョンプ)線のひかり号列車に乗ってソウル駅を出発し、四月一日、関釜連絡船・昌慶丸に乗って釜山を離れ、下関に向かわれた。そして、四月初旬、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学された。
1 私は小さい頃から、「この国が日本よりも強い国だったら、このようにはならなかっただろう」と考えていました。問題はそれです。弱いから、弱い背景と弱い基盤に立っているから、悲惨な運命の道を避けられない、ということを切実に感じました。その時に思ったのは、「世界で一番の強国はどの国か。アメリカだ」ということでした。
その時、既にアメリカについて知っていました。「それならば、アメリカは日本よりも大きな国だが、アメリカも、日本がするように、自分の国権を拡張するために、弱小国を占領してこのようなことをするだろうか、しないだろうか。同じだ。している。だとすれば、正義の国家、この世界を代表し、正義の立場に立って弱小国を保護し、育ててくれる正義の国はないのだろうか」と幼い頃から考えていました。もしそのようなことができる何かがあるとすれば、それは何かと考えたのです。歴史的に見るとき、人間世界では不可能ですが、もし創造主がいるとすれば、創造主なら可能だというのです。
ですから、「創造主、絶対者がいるなら、私はその絶対者を通して国を生かし、圧迫を受けている民族の解放を成し遂げよう」と思いました。それで、神様がいるかいないかという問題に取り組み、宗教を探査しました。神様がいるのなら、その神様に自分が一度会わなければならないと思ったのです。そうして十代を過ごし、二十代に向かいながら、信仰路程において様々なことにも悩みました。
そのような中で、「日本に行ってみなければならない。日本を経てアメリカに行ってみなければならない。現地に行って、弱小民族が悲痛な目に遭い、迫害を受けるとはどのようなことなのかを体験しなければならない」と考えたのです。
2 漢江の鉄橋を通り過ぎる時、涙をぽろぽろ流したのがきのうのことのようです。孤児のごときこの民族を置いて日本に行く時、汽車の中で外套を頭からかぶり、釜山まで痛哭しながら行きました。
ある日本人のおばさんが汽車の中で泣いている私を見て、「学生さん、親御さんでも亡くしたのですか。そのような悲しみは、人なら誰にでもあることではないですか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ひとえに国を愛する気持ちでいっぱいになってあふれ出た悲しみでした。国を愛せない人は、天を愛することができないのです。
3 私は、日本留学に行くため、ソウルから「ひかり」という汽車に乗って釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放し、成長しつつある次の世代が、希望にあふれて前進と出世ができる道、自主的独立国家を備えられる道を、私が築かなければならない」と決心しました。
汽車が漢江の橋を通り過ぎる時、手すりをつかんで、とめどもなく涙を流したことを今も思い出します。「私が帰ってくる時は、涙を流して帰ってくる男にはならない」と考えました。
4 私は、釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、連絡船の中で、とめどなく涙を流したのが、ついきのうのことのようです。当時は日本統治時代です。ですから、哀れなこの民族を、誰がその束縛から救ってくれるのかというのです。私は星を見つめながら夜を明かし、この民族の解放の一日のために、涙を流して精誠を捧げました。この民族のため、神様のみ前に「私はこれから旅立ちますので、帰ってくるまで、神様、この民族をお守りください」と祈ったのです。そのように涙を流しながら恨の心情を残したのが、きのうのことのようです。
5 私は、早稲田大学附属高等工学校に入って、夜間部に通いながら勉強しました。それは、苦学生たちの費用を援助してあげるためでした。私は労働者生活をしながら暮らしたのです。それを皆さんは知りません。今、生きている人たちがこのことを涙で訴えなければ、日本は立つことができません。日本の人たちが、姿勢を正して立つことができない恥ずかしい歴史を抱き、痛哭とともに謝罪しなければならない日が残っているというのです。
6 日本統治時代の時、日本の友人もたくさんいました。その友人たちにも、分け隔てなく接してあげました。彼らは、難しい事情があると、私のところに相談に来ました。「韓国はどうなのか」と言いながら、大勢の友人たちが訪ねてきたのです。そのような日本の友人たちに負けたくないと思いました。彼らが一言話せば、私は二言話すのです。私は本当に早口です。日本人に話す時も、迅速に話します。素早く話せるように研究して訓練しておきました。今後、日本の青年たちまで自分の手で消化し、世界のために用いると誓ったのです。普通の日本人以上の常識をもって弁論ができる能力を備えなければならないと思って訓練しました。
7 昔は、言葉を速く話さず、ゆっくりと話しました。日本に来て、日本語を学びながら、一分間で誰がより多く話せるかを日本人と競争したりもしました。彼らに負ければ眠れませんでした。三十分ほど話をするのに、ゆっくり話せば千語しか話せないところを、ある時は倍以上速く話し二千語以上も話しました。ですから、訓練が必要なのです。
「原理」の究明と心身訓練真のお父様は、日本留学時代から、原理の究明と体系化に没頭された。聖書全体を反復して読破し、新たに究明された原理と照らし合わせて検証された。下宿先の机の上には、いつも韓国語、日本語、英語の聖書が置かれていた。特に、韓国語と日本語の聖書には、文字を判別するのが難しいほど、傍線などが引かれていた。膨大な天倫の拫本真理を体系化する過程は、誰も道案内できない、ただ独り、孤独に歩む探究の道であった。そして、学業のほかにも、下層の生活から中流層と上流層の生活まで、等しく経験しながら、つらい修練をされた。将来、途方もない使命を完遂するため、いかなる環境においても限界線を突破し、目的地点まで進もうと、万事に対処できる力を蓄えられた。特に、家から送られてきた生活費は、貧しい人々のために使い、背負子(しょいこ)や荷車で物を運ぶ仕事などもされた。労働者の友人であると同時に、兄弟ともなり、一緒に血と汗を流しながら苦楽を共にした。「萬苦の勝者、栄高の王者」になることを、訓練を通して自ら体得されたのである。
3 私は人々に、自分がどのような思想をもっているのか、全く話しませんでした。友達も知りませんでした。私は、聖書を研究したり、宗教関係の書籍や、普通の人があまり読まない哲学書も読みました。早稲田大学の政経学部に通う友人がいたのですが、共産主義を勉強していたその友人と激論を交わしたことがあります。
また、路傍に立って大声で演説したこともあります。桜の花が満開で、多くの人が集まっている所でも演説をしました。その時代に対する批判をしたのです。「あすの青年は、これこれこういうようにしていかなければならない」と叫びました。その時に預言したことが、今になってそのまま的中しつつあります。その時、友人たちが見物に来て、私が演説しているのを見て仰天したのです。
9 ソウルの学校から推薦を受けて、早稲田大学附属高等工学校に入りました。学校の勉強の代わりに、教会関連の勉強をし、また、聖書にある未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を中心として、五年間研究しても、解決できないことがあります。その一つの章が問題だというのです。それが根です。そのように、聖書の中で最も難しく、難解な問題をすべて明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが「原理」のみ言です。天と共にこれを解き明かしたので、天が無関心ではいられないのです。天はすべて知っているというのです。
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