真のお母様は、天の新婦として立つ聖婚式を前後して、あらゆる苦難を踏み越え、勝利の道を歩まれた。絶対主体であられる神様と真のお父様のみ前に、絶対対象として、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の手本としての路程を歩まれた。真のお母様は、いかなる逆境にあっても、摂理であれば、それを貫いて進む強いお姿をお見せになった、真のお母様は、「私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連続でした」と回顧された。
1 お父様がどのような方かを知っているため、皆さんは、それと同じように、ただそのまま、私(お母様)が非常に幸福で、すべての面において完全な人であるに違いないと考えるでしょう。「あなたは神様がそのように創造され、本来、完全な姿でお生まれになった方ですから、御自分では何の努力もする必要がなく、ただその位置に選ばれたのです」と考えるかもしれません。そして、天宙の母として、お父様に出会い、幸せな家庭をもって、人生を楽しんでいるというのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。しかし、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩まれたように、私も当然、私なりに、信じられないほどの忍び難く、耐え難い十字架を背負ったのです。
もちろん、私も初めから完全な人間として出発したのではなく、完成まで進まなければなりません。その到達すべき基準があまりにも高く、時には目標までたどり着くのが本当に不可能であると思われたこともあります。その使命を果たし、神様の期待に応えるためには、非常に困難な試練と苦難、そして、絶対的な信仰が必要でした。私は、そのような立場にいたのです。過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程に関して振り返って考えてみるとき、涙があふれるのをどうすることもできません。これについて話そうとすれば、苦難と試練の記憶がすべて生き生きとよみがえるので、私はそれを話すのが非常につらいのです。
2 私(お母様)が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い、苦難の連続でした。神様は、選ばれたお父様に試練を与えられたように、私にも何度も試練を下さいました。そして、サタンも、お父様とイエス様を試みたように、私に対して、やはり試みました。メシヤが通過されたような過酷でひどい試練を、このか弱い女性が通過したのです。私は実に、荒々しい海に浮かんだ小さな帆舟のようでした。一方で、その当時は、私に訪ねてこられる神様の恵みを、最も深く感じた時でもありました。
私が苦痛の中にいるときも、神様は、自ら現れて啓示を下さり導いてくださいました。そのような直接的な導きがないときも、私を愛し、守ってくれようとする周囲の人々を通して、(神様は)絶え間なく導き、啓示を下さいました。ですから、当時は、大変に困難な試練と苦難に耐えなければならない時だったにもかかわらず、同時に、その時こそ、最も美しく、神様の恵みに満ちあふれた、本当に神様が共にいてくださることを実感できる時でもありました。このようにして、完成に向かって苦悩しながら歩んだ成長期間が終わり、天が願われる基準に到達した私が、その当時を振り返るとき、その苦難に満ちた記憶がすべて、喜びに変わったのです。
私はいつでも、お父様と深い対話をし、交流することができました。お父様と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限の信頼に満ちあふれた対話がありました。お父様とそれほど多くの話を交わさなくても、深く互いの事情を理解することができました。なぜなら、お父様が通過してこられた事情と、私が歩んできた道が、神秘的なほど、非常に似ていたからです。お父様とは、共通の一つの目的を深く理解し、それゆえに不屈の信仰ですべてのことを忍耐し、すべての苦難と闘って完成基準に到達して、今やサタンが一切侵入できない基準まで歩んできたという勝利感があります。お父様と私が向かい合うとき、互いに感じる勝利感によって、私は限りなく慰められ、平安を得ることができました。
3 私(お母様)は、自分自身の体験を通して、神様について、神様がどのようにそのみ旨を成就されるのかについて、多くのことを知りました。人生において、私は、本当に天国と地獄をすべて通過してきましたが、そのどちらも、神様が期待される、完全に成熟した人格を形成するために必要なものだったことを知るようになりました。
もし私が、天国の喜ばしいことだけを享受してきたとすれば、天国の生活をそれほど深く味わい、感謝することができなかったでしょう。私は、地獄のどん底までも通過し、その苦い味も体験しました。「これ以上、このように難しい道を進み続ける力が私にはありません。この道を進み続けるのは絶対に不可能です。神様!なぜ私にこのような道を行けと言われるのですか」と、数え切れないほど尋ねました。私に必要だったのは、真に朽ちることのない不屈の信仰と決意と忍耐であり、それが今日の私自身をつくり上げたと言えます。
皆さんが天国に行く道において、天国的な面だけを期待してはならないというのです。地獄的な面も当然、予期しなければなりません。地獄のどん底の監獄を通過することも、当然、予期しなければなりません。それこそ、神様の恩恵を感じられる最も貴い部分であると言えます。そのような過程を通過するとき、皆さんはより堅固に立つことができ、円満で総合的な人恪と霊性を備えた人格者として、さらに成熟することができるでしょう。そして、天国をより深く体恤できるでしょう。そのような体験が、いつか皆さんの誇りとなるでしょう。勝利と忍耐の記録こそ、いつの日か皆さんの誇りとなるでしょう。
勝利された真のお母様真のお母様は、満ちあふれる慈愛をもって、時には限りなく崇高な涙をもって、時には少女のような清らかなほほえみで、時には澄み通って地の果てまで響く玲瓏(れいろう)な声で、暗闇を貫く輝かしい光を発せられた。真のお父様は、「真のお母様の勝利によって、復帰摂理を完成、完結、完了することができた」と語られ、真のお母様の勝利に対して、「実に、無私こそが成功の鍵」であることを強調された。
真のお父様が一九九九年六月十四日の「真の父母様天宙勝利祝賀宣布表彰牌」の中で明らかにされたように、真のお母様は、「神様の特命と復帰摂理歴史の結実として結ばれた本然の神様の子女であり、人類の真の母の使命」をもってこの地に来られ、「天のみ前に真の子女の使命、夫の前に真の妻の使命、そして、子女の前に真の父母の使命」を完遂された。そして、真のお母様は、天だけが記憶される中、蕩減復帰の苦難の路程を勝利し、永遠なる真の父母の伝統を立てられたのである。
4 お母様は、家庭の母として、教会の母として、天宙の母として、当然、真の母として、より大きな責任をもつようになります。そのようなお母様が他の人に比べて特別な点は、生まれつき鋭敏な霊的直観力をもっていることです。また、人物や事物に対する洞察力と観察力がとても正確で、直観力も非常に鋭く、明晰ですから、お母様の心に反映されたものはいつでも真実だというのです。その次に、お父様に対する絶対的な忠誠心をもっており、誰が何と言おうと、何でもやると深く決意していることです。それがお母様の信念でもあります。そのような信仰と信念があるので、その苦難の歳月にも、目的達成のため、実に信じ難いほどの忍耐力をもって勝利してきたのです。
5 お父様は、お母様がみ旨に対して特別な性稟をもっていることを深く感謝しています。それは、お母様が常に私心なく、自分の子女だけでなく、皆さん食口に対しても、何でも与えようとすることです。自分の物のうち、何か貴く思う物があれば、いつも誰かに与えたいと思い、与えることを喜びとするというのです。世の中の多くの人々は、真のお母様には多くの喜びがあり、宝石や服などをたくさんもっていると思うかもしれませんが、事実は決してそうではありません。
何でも、自分が良いと思う物は誰かにあげて喜ばせたいと思っています。天候が突然変わったある日などは、お父様と外出しなければならないのに、箪笥(たんす)の中に服があまりなく、その天候に合うふさわしい服を見つけられないときもありました。もちろん、そうでなければ、お父様自身の伝統に付いてくることができないのですが、お母様はお父様以上に質素な生活をしてきたのです。
6 お母様は、ひたすら完成基準に向かって、七年間闘ってきました。この七年という期間に、実に様々な非難と中傷、うわさ、誤解などが真の父母様の家庭を取り囲み、渦巻いていました。非難と中傷と迫害ゆえに血を流すような期間でしたが、それらすべてのものが、必要だったのです。問題は、お母様がこのような試練に耐え非難されてもそれを克服して越えられるかということでした。
お母様はすべてのことに勝利しました。お母様はひたすら沈黙を守って、耐え忍ばなければなりませんでした。このような事情の中で、歳月が流れていきました。しかし、いかなることが起こっても、お母様は最後まで不屈の信仰によって忍耐し、犠牲になりながら、沈黙を守り、信仰し続けてきたのです。そして、ついに、非難されてきた事情がすべて逆さまになり、皆がお母様に頭を下げ、「この方は、本当に天宙のお母様であられる」と考えるようになりました。そのように尊敬し、侍るようになったのです。
7 時には、とても信じられないことが起こったりもしました。お母様を非難していた人々は結局、一人ずつ離れていきました。お父様は原理を知っているので、このような類の事情をいかに主管し、指導者としての使命を果たして、最終的な勝利をもたらすべきか、よく分かっていたのです。もし原理を知らなかったならば、本当に、どのように処理すべきか分からず、うろたえたでしょう。結局は、愛です。愛が中心であり、すべてが愛の問題なのです。そして、愛の問題が極端な方向に行くこともあり得るというのです。お父様は、愛を征服し、復帰するために来ました。そして、それは神様に対する心情復帰でもあります。それこそ、愛の十字架でした。しかし、お母様は、このような困難を経ながらも、ただの一言も弁明しませんでした。お母様自らその苦難の意味を悟って忍耐し、ついに勝利したのです。
8 お母様について話すことができるのは実に勝利的な信仰だったということです。お父様に対する絶対的な信仰でした。お母様も大母様も、共に勝利しました。この天宙的な勝利以降、今やお父様として、そこにふさわしい栄光を(お母様に)与えることにしました。大母様も、生涯を通してお母様の母親にふさわしい、正当な尊敬と栄光を受けなければなりません。もしそれらを受けることができずに亡くなれば、子孫にその結果が現れるでしょう。原理的観点から見るときお父様はお母様に、これまでとは違う形で向き合っています。それが復帰の過程です。それほど難しく、大変なことなのです。これがどれほど難しいことか、皆さんはとても理解できないでしょう。
お母様と大母様は、最も光栄で、責任ある立場に選ばれたのですが、統一教会の最も低い立場で入教し、最も低い位置からその路程を出発しました。このことから、私たちは神様の祝福が、最も高く、光栄で神聖な所で受けるものでは決してなく、人間の悲惨で最低な立場に打ち勝って受けるべきものである、という教訓を学ぶことができます。そのようにしてこそ、祝福が永遠のものとなり全人類を包容できるものとなるのです。
Create your
podcast in
minutes
It is Free