真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七ヵ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と苛酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された。
興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された。
真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼と共に、獄中の弟子を代表する天使長格として、負傷した朴正華を自転車に乗せ、大同江の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された。
平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった。
1 私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遺われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です。
そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです。
2 興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました。
人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていない道を通ってきたのです。
朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません。
3 三十八度線を中心として、国軍警備隊は南側にいて、人民軍は北側にいました。三十八度線で警備隊が見張っているので、南側に行く道がすべて塞がってしまいました。それで、一般人は一人も三十八度線を越えることができませんでした。ですから、青丹(チョンダン)という所から船に乗って出なければなりません。三十八度線に問題が生じたことを、私が誰よりも先に知りました。
国軍警備隊が道の要所にいるので、三十八度線に問題があれば、彼らがまず先に移動するのです。一日前に国軍警備隊が移動することを知ったので、すぐに三十八度線をあとにしました。歩いて埠頭に行ってみると、埠頭から龍媒島までが一・五里です。(ぬかるみの中、人を背負って)二時間以内に一・五里をどのようにして行くのでしょうか。水が引き始めるのを見て、一・五里の道を歩かなければならないのですが、水が引く時から渡り始めて、水が戻ってくるよりも速く歩いてこそ、一・五里を渡ることができるのですが、危険千万です。天を信じて、あらん限りの力を尽くして走った時の思いが忘れられません。その一・五里の泥道を走ったのです。ですから、体は、頭から足の先まで泥だらけになりながら、潮水が埠頭を越える前に、やっとのことで渡り終えました。
4 私は、以南(現在の大韓民国)の地に下る頃、北朝鮮がどのようになるかということを見通していました。ですから、三十八度線をいかに越えるかという問題をめぐって、相当に苦心しました。
もしその時、私の言うとおりにしていなければ、出てくることができなかったのです。休みなく先を急がせました。警備隊員たちが三十八度線からすべて後退していたので、事態は非常に不利でした。そのような時は、素早く先に動かなければならないのです。
このようにして、龍媒島を通って韓国に向かう船に、一旦は乗ろうとしたのですが、その時、警備隊員がすべて後退していた状況だったので、一般人たちは船に乗ることができませんでした。ですから、龍媒島に行ったのに、私たちの乗れる船がないので、再び戻ってきて、三十八度線を越えて下ってきたのです。
5 私たちが臨津江の近くに到着した日、夜の間に臨津江の川辺まで行かなければならないという、そのような何かを感じました。そういう時、お父様は、非常作戦、非常措置を取るのです。アンテナを最高に伸ばして調べるのです。普通の時には、そのようなことはしません。
ですから、他の人たちは夕方になったといって、他の日と同じようにみな村に入って場所を取るのですが、私たちだけは午前零時を過ぎて一時に、臨津江に隣接する家に到着しました。その家の人は、みな韓国に行って、いなかったので、そこに入りました。ところが、私たちが到着した日まで、臨津江が凍らなかったのです。「今夜この川が凍らなければならないのだが」と心配したのですが、神様が保護してくださり、ちょうどその日の晩に凍りました。それで、明け方早くに越えていきました。
私たちが一番早く来たと思ったのですが、その村に先に来ていた人たちがたくさんいました。そして、国連軍の撤収に伴って、私たちの一行を最後に、道を塞いでしまったのです。そのあとに来た人たちは、みな後ろに引き返しました。このような時に一分でもうろうろしていれば、どうなっていたでしょうか。人の運命は時間が問題だというのです。躊躇していればすべて台無しにしてしまうのです。
そのようなことが私たちの人生にもたくさん起こるのですから、天道をかき分けていく道で、何事も起こらないことがあり得るだろうかというのです。ですから、どれほど深刻でしょうか。
6 興南の監獄から出たあとは、何一つ持っていない旅人でした。平壌から韓国まで下ってくる約二ヵ月間は、乞食をしました。ある時は、言葉で表現できないほど食べたいと思うこともありました。それでも、「神様、きょう食べる物がないので、何か下さい」という祈りは絶対にしませんでした。かえって神様を慰労したのです。
ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道端で何かをくれるはずだ」と考えると、翌日に間違いなく、考えたとおりに真っ白い服を着た婦人が道端で待っていて、「昨晩、夢で万端の準備を整えて待っていなさいと言われ、このようにお待ちしておりました。どうぞ召し上がってください」と言うのです。そのような出来事がたくさんありました。誰も否定できない生きた実績をもっているのです。
そのように助けてくれた村には、時が来れば、恩を返そうと考えています。神様もそうです。お父様と神様が互いに抱き締め合って泣いたその悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かう心情は、推し量ることができません。それを考えると、すべての細胞が締めつけられるようです。
三十八度線を越える時の決意真のお父様は、三十八度線を越える時、「必ず、この手で自由世界を糾合して共産党を消化し、北朝鮮を解放して、南北を統一する」という、悲壮な誓いの祈りを捧げられた。真のお父様は、その日の祈りと誓いを忘れることなく、一生涯、闘ってこられた。臨津江を渡ったあと、紆余曲折の道のりを、ソウルまで八十数キロ歩くのに、一週間かかった。一九五〇年十二月二十一日、臨津江から出発して汶山(ムンサン)駅に到着し、十二月二十七日に漢江を渡り、平壌を発ってから二十四日目に、学生時代に過ごされたソウルの黒石洞に到着されたのである。
7 私は、三十八度線を越える時に祈った言葉を忘れません。「お父様、私は以南の地にまいります。私は以北に来て、み旨を成し遂げることができず、敗者の悲しみを抱いたまま、獄中の身の上を免れることができずに、追い立てられる群れの歩みに従って以南へとまいります。以南に行けば、また反対を受けるでしょう。十年の道、二十年の道、立ちはだかる道がどんなに遠いとしても私は行きます。行って、またこの道を訪ねてこなければならないことを知っておりますので、三十八度線より北に私が行けなければ、私の思想を植えつけて子孫に行かせるようにし、彼らが行けないのなら、私に従う弟子たちにでも行かせるようにいたします」という決心をして下ってきた人です。十年の歳月を一心不乱に闘ってきたのです。私が天のみ前に誓って進み出た歩みは、皆さんとは違います。
8 私が三十八度線を越えながら心で誓ったことは、誰一人として知らないでしょう。また、以北の興南監獄で三年近い歳月を送り、三十八度線の南側を中心として天のみ前に祈ったことを、誰も知らないのです。「悲しい環境ですが、きょう、三十八度線を越えます」と言って涙ながらに祈ったことを、一緒に来た人も知りません。私のために精誠を尽くした父と母を故郷に残し、「この親不孝者が再び帰ってくる日まで待っていてほしい。死なずに待っていてほしい」と言って出発したことを、私は忘れずにいます。また、私が共産党から拷問を受けながら、「私がこの目の黒いうちに、お前の一族を屈服させ、お前の口で神様の偉大さを称賛するその日を迎えてみせる。私は死なずにその日を迎えるのだ」と誓って決意した事実を、皆さんは知らないでしょう。それは今もなお、骨身にしみる心情として私に残っているのです。
9 お父様は一人、以北の地から追われる身で韓国を目指して下ってきました。それがついきのうのことのようです。その期間に夢のような出来事がたくさん起こりました。
興南の監獄から出て、韓国に下ってきたのは三十一歳の時で、まだまだ若い頃でした。その時、監獄から出ながら決心したことが、再出発でした。いくら困難なことが北朝鮮の地であったとしても、そこでのすべての困難を忘れ、その困難だった事実が、私の行く道に損害をもたらすのではなく、第二の出発をする上で一つの刺激剤になるだろうと考えました。
私は、いかなる道を通ってでも、み旨の道を完成すべき責任を感じていたので、監獄から出てきた三十代の若者として、新たに出発するという決意が強かったのです。(平壌から)三十八度線を越え、慶州を経て釜山まで来るのに、二ヵ月ぐらいかかりました。その時、釜山に来てみると、どこにも身を隠すことができないほど避難民たちでいっぱいでした。それで、仕方なく土窟を掘って避難生活をせざるを得なかったのです。
Create your
podcast in
minutes
It is Free