10 私が平壌に行って伝道活動をする時、神様がどれほど多くの準備をされたかということを、知らなければなりません。私に会う二十年前に、「ある家でこのような方に会ってみ言を聞くだろう」と知らせてくれるほどでした。お父様が数えの二十七歳の時に以北に行ったので、七歳の時から天が役事したのです。その時は私も知りませんでした。それをこの世の人たちは信じられるでしょうか。
ですから、多くの人たちがお父様を注視してきたのです。そのような人たちが今、地上で証しています。その人たちは、天使長の立場でお父様について証する使命を担うのです。原理的観点から見ると、私が現れる前に、私以上に精誠を尽くさなければなりません。それで、何世紀も前から、お父様に侍る霊人たちが再臨時代に向けてこの地に協助してこそ、地上のサタン世界へと進んでいける基盤がつくられるのです。
11 おじいさん、おばあさんたちは、お父様のことが好きです。数えの八十歳になるおばあさんたちが、私が平壌にいる時、霊界から教えられて私を訪ねてきました。杖をついて歩くおばあさんたちが、どういうわけで訪ねてくるのでしょうか。霊界から教えられて集まったおばあさんたちは、私の服の裾をただ一度でも触って家に帰れば、その日は自然に踊りを踊るのです。
服の裾でも一度触れるようになれば、帰る時は軽やかに飛んでいくようだというのです。帰ってから、御飯も食べずに一日中踊っても気分が良いというのです。何か妖術を使ったわけではありません。真の愛の雰囲気に接すると、そのようになるのです。無性にうれしいのです。与えてもうれしいというのです。ひっきりなしに与えてもうれしく、悪口を言われてもうれしく、これ以上ないほど誠実に働いてもうれしいのです。
12 玉世賢おばあさんも、誰かが伝道したわけではありません。「主はどのようにして来られるのか」と祈り、霊界に通じてみると、「主は雲に乗って来るのではなく、人として来る」と言うのです。神様がそのように教えてくれたのです。ですから、「信じてはいけない」と誰が言っても、絶対に信じるようになっています。
祈るとき、「主はいつ、どこに来ますか」と言うと、「平壌に来ている」と教えてくれるのです。「景昌里の小さなある家の部屋に隠れていらっしゃる」と教えてくれたのです。お父様はその頃、そこに隠れて過ごしていたのでうわさが立たず、探し出せなかったのです。その時は、景昌里で開拓する時でした。
13 お父様が平壌に行っている時、訪ねてきたおばあさんがいました。その時、私は数えの二十七歳でしたが、そのおばあさんは七十二歳でした。吉善宙牧師の時から李龍道牧師を経て、恩恵を受けたおばあさんなのですが、この世のものとは思えない驚くべき奇跡の役事を数多くしました。このおばあさんは、平壌の牡丹峰で祈りを捧げ、「これから日本は、韓国のキリスト教を完全に排斥するようなことを必ず起こすから、その時に備えて準備せよ」という啓示を受けたのです。
そのおばあさんは、必ず午前二時か三時に祈ります。しかし、そのおばあさんの夫は反対していました。そのおばあさんは、あらゆる反対を退けて、長年にわたって祈ってきたのです。
このおばあさんは、韓国が選ばれた国になることを知り、また、平壌にいる女性たちに、「これからこのような世界になり、韓国に喜びの幸運の時がやって来るだろう」と教えてあげました。
そのように祈ってくれた方がいたので、神様が役事してきたみ旨が残り得るというのです。一人で来て追い込まれ、追われて一人で死んでいってはいけません。地上で自分の生命を祭物にして、神様のために相対的な立場で祈ってくれる女性がいたので、神様の復帰摂理の基盤が、この地上に残り得たのです。
14 お父様が数えの二十七歳の時、平壌に行くと平壌で騷ぎが起き、ソウルに行くとソウルで騷ぎが起きました。当時、町に行くと、町の人たちが夜も眠らず私のいる部屋にしきりに来ようとするので、論難の的になりました。
町の子供たちまでも、私のいる家のトイレに来て用を足そうとしました。どうしてそうなるのかというのです。子供たちに会うと、おもしろいおとぎ話を聞かせてあげます。御飯を食べるのも忘れるほど、ひたすら話してあげるのです。一日の間に数十もの遊びを考え出して、一緒に楽しく遊びました。そうしながら子供たちに、「お前のお母さんはどこに行ったのか。お前のお父さんはどこに行ったのか」と聞いてすべて調べておき、子供たちを連れて遊ぶのです。
私の家に来て遅くまで遊べば、疲れて寝るようになっています。そうなれば、伝道するためにその家を訪問することができるのです。それはどれほど良いでしょうか。子供たちが夜遅くまで遊んで眠ったら、お父さん、お母さんのところにおんぶしていきます。自分の子供をおんぶしてきてくれるので、有り難いことではないですか。そこで、「お茶でも飲んでいってほしい」と言うようになれば、役事が起きるのです。
15 私が以前、平壌で下宿していた家で、三歳になる子供と出会った際、敬拝したこともあります。幼い子供に対して、天のように侍りました。幼子のようでなければ天国に行けないというので、まず、子供たちにそのようにしたのです。その子が涙を流しながら「やめてください」と言う立場まで高めてあげるのです。
幼い子供に対して詩を詠み、歌を歌い、神様の息子だと称賛できるようにするためには、尊敬語を使ってたたえることができなければなりません。そうなる時に、神様の公認を受け、その子供がたたえることができるようになるのです。
天地の法度において、上下関係がねじれてしまったので、これを正して、このように復帰の道を選別してくるのです。そのようにして相対圏をつくっておき、彼らが喜んでそのようなことを相続して行える基盤が築けたので、初めて先生の位置に立つようになったのです。
キリスト教指導者たちの不信と大同保安署での受難平壌で真のお父様の教会が、恩恵深い役事によって活気を帯びるようになると、篤実なクリスチャンたちが自分の教会に行かず、真のお父様がいらっしゃる所にばかり来るようになったため、彼らが所属していた教会の牧師と長老たちが、真のお父様の集会所にまで来て、狼藉(ろうぜき)を働き、一部の教会員を拉致していったこともあった。のちに、彼らは、自分たちの思うとおりに解決されないと見るや、共産党当局に、真のお父様が南から来た怪しい人物であり、不法集会を行う者であると告発し、真のお父様は、一九四六年八月十一日、大同保安署に収監された。そのような中でも、大同保安署の中で神霊教団の教主に会うことを霊的に察知され、そこに入られたのである。大同保安署には、腹中教の教主である許浩彬と、その人に従う幹部たちが収監されていた。許浩彬は女性で、真のお父様とは違う監房にいたが、男性の幹部は真のお父様がいらっしゃる監房に入っていたため、その人と多くの会話をされた。当時、腹中教は、主が許浩彬の腹中にいると考え、おなかが振動するたびに出てくる言葉を通して、信徒たちを指導していた。真のお父様は、その信仰を否定して監房から釈放されなければならないと伝えたが、許浩彬は真のお父様の言葉を信じなかった。そのため、真のお父様は、最後の手段として、秘密裏に紙切れを許浩彬に送られた。許浩彬は、真のお父様の言葉を信じるか、無視するか、二つに一つを選ばなければならない立場に立たされた。しかし、彼女は、真のお父様に会ったこともなかったため、結局、真のお父様のみ言より、自分の信仰を守ることが、自分の侍っている主に対する道理であると考え、その紙切れを捨てようとした。真のお父様のことをメシヤと分かれば、その紙切れを大切に保管したはずだが、それが分からず、無情にも捨てようとしたのである。そうして、その紙切れが保安署当局に発見され、真のお父様は厳しい拷問を受けて、瀕死の状態で保安署の外に放り出されてしまった。このような真のお父様を、景昌里教会の食口たちが教会にお連れして、この上ない精誠で看護したのである。これにより、真のお父様は健康を再び取り戻すことができたが、許浩彬と幹部たちは、その後、獄死するなど、凄惨な最期を迎えた。
16 一九四六年六月、共産党は以北の全域で、新しい宗教団体に対する弾圧を始めました。ですから、それと類似する団体があれば、糾弾されざるを得ない立場でした。当時、お父様は平壌の景昌里で伝道活動をしていました。なぜ以南(現在の大韓民国)にいた私が以北に行ったのでしょうか。
その当時、韓国の信仰の中心地は平壌であり、またそこで信仰の闘争歴史が綴られてきたからです。このように、天が準備した基盤の上で新たな出発をすべき使命があったので、以北に行ったのです。そうして、そこで伝道活動をしていたところ、八月十一日に共産党に捕まって大同保安署に入ることになりました。
17 一九四六年にお父様は、共産党に捕まって平壌の大同保安署に入りました。当時は、平壌で、キリスト教界が解放を迎えて、教会を再建しながら歴史的な使命を果たすために新しく出発していた時でした。このような環境の中で、平壌に行って新しい運動を展開したのです。当時のキリスト教界では、この民族に訪れた解放の喜びとともに、日本統治下で圧政を受けながら悲痛な信仰生活をしてきたすべての恨を取り除き、新しい望みと希望にあふれた教会の再建と信仰の革新運動が起こっていました。
そのような新しい再建の火が広がる状況の中で、景昌里教会が出発することになりました。このような環境の中で活動をしているうちに、キリスト教の中心となる信徒、または特別な恩恵を受けた人たちが、自分の所属教会に行かずにお父様のところに集まってきました。それで、当時、平壌で問題になり始めたのです。その時、お父様は西門(ソムン)から近い景昌里で伝道をしながら、教会出発の基盤を立てていました。
18 お父様が許浩彬氏の集団と関係があるとして監獄に入っていた時、許浩彬氏に紙切れに書いた手紙を送りました。お父様は「この手紙を書いた人は天の使命をもった人物である。あなたは祈ってその人がどのような人なのかを調べなければならない。もしあなたが啓示を受けたすべてのことを否認するなら、あなたは釈放されるだろう」という内容を書いて送りましたが、その紙切れが看守に発覚しました。それで、お父様はひどい拷問を受けました。一九四六年九月十八日、午後二時のことです。
その時、韓国にいるアメリカ軍のスパイとしても告発され、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪であることが判明しました。それで、お父様は、一九四六年十一月二十一日の午後に釈放されました。許浩彬氏とその追従者たちは、お父様の言葉に従いませんでした。一九五〇年に「六・二五動乱」が起こった時、彼らはすべて虐殺されてしまったのです。その集団の失敗ゆえに、お父様はほかの人たちを探し求めなければなりませんでした。条件的な数を探し出せるまで、活動したのです。
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