真のお父様は、ソウルの黒石洞に到着されたあと、明水台の新イエス教会時代に親しかった信仰の同志、郭魯弼(クァクノピル)の家を訪ねたが、既に釜山に避難していた。その家に荷物を置き、数日間,滞在された。一九五〇年十二月三十日には、昔の下宿先である李奇鳳(イギボン)の家族を、人づてに聞いて探し求めた末に見つけ出し、夜遅くまで語り合った。三十一日、郭魯弼の家に帰ってきたところを、突然押しかけた警官の職務質問に遭い、黒石洞の派出所に連行された。そして、真のお父様は、金元弼と同じく、防衛軍の徴集という名目で、昌慶宮(チャンギョングン)で身体検査を受けられた。短く切った髪と、「北朝鮮から下ってきた」という言葉に、検査員は、逃亡兵かスパイかもしれないとの心配から、丙種(免除)判定を下した。このようにして不合格証を受け、金元弼と共に黒石洞の郭魯弼の家に再び戻って、一九五一年、新年の初日を迎えられた。二日後、身体検査の不合格証を持って派出所に行き、避難民証の発給を受け、一・四後退(中共軍参戦による、韓国軍の後退)により一月三日、ソウル全域に避難退去令が下りると、真のお父様一行も、釜山を目的地として再び避難していかれた。
1 私が以北から以南に来る時、丸刈りの頭のままで来ました。昔は軍隊に行くと、頭を刈りました。私も以南に来て、若者なので軍隊に行かなければなりませんでした。昌慶宮で若い軍人たちの身体検査をしていたのです。
私は監獄から出てきたばかりでしたが、体つきはやせていませんでした。それで、兵役調査をしたのですが、私に対して、「どこから来たのか」と聞くのです。当時はスパイと軍人が入り混じって歩いており、見分けるのが難しい時でした。髪の毛を刈っていたのでスパイではないかと思ったのです。もしスパイを軍隊に送ったら、自分の首が飛ぶので、調査後に免除の「丙種」という落第のはんこを押してくれました。それで、それを持ち歩いたのですが、どこに行っても万事に通じました。証明書はそれしかなかったのです。
2 皆さんは、お父様が苦労したことを知っていますが、その苦労をただしたのではありません。人民軍が叫びながら追いかけてくる中、避難地の釜山に到着しました。避難民の中では、私たちが一番遅く到着したはずです。洛東江戦線の戦闘が終わったあと、釜山に到着したのです。
避難してくる中で、ソ連軍が迫ってくる危険、中共軍が迫ってくる危険、北朝鮮軍が迫ってくる危険を経てきました。ですから、避難生活をたっぷりと味わったのです。その中で忘れることのできない出来事がどれほど多いか分かりません。それは、お父様の一生において通り過ぎる歴史の一つの歩みではなく、歴史時代の蕩減という恨の穴を埋めるための歩みでした。私が、後ろを眺めながら、「これから行くべき道は楽に行くことはできない」と、決意して行く人であることを忘れてはいけません。避難生活のとき、家がないので芝生の上や砂場で、空を布団と思って眠り、星を見つめながら、三千里半島に恨の涙をたくさん流したのです。
3 平壌から歩いて釜山まで来るのに、五十五日かかりました。御飯ももらって食べたりしながら来たのですが、おもしろいことに、天は本当によく御存じだというのです。おなかがすいて疲れて、「あさってぐらいに鶏が手に入るだろう」と考えると、そのようになります。それが分かるというのです。
あるおばさんが現れて、「いらっしゃいましたか」と挨拶するのです。それで「どなたですか。私は知りませんが」と言うと、「昨夜、私の何代前のおじいさんが現れて、きょう貴いお客様が来られるから、鶏も料理し、餅も作っておくようにと言うので、準備しておきました」と言います。「その方がどのような顔立ちなのか御存じなのですか」と尋ねると、「見かけはみすぼらしい行人(こうじん)として来るとのことでしたが、見るとあなたの顔とそっくりです」と言うのです。
皆さんはそのようなことを信じられますか。そのようにして、餅も鶏肉も御馳走になったのですが、そのようなことが多くありました。
4 北朝鮮で私に従っていた食口は、積極的な人たちでした。夜も昼も、私がどこに行って誰に会おうと、付いて回りながら大騷ぎした人たちだったのです。しかし、監獄に入って出てくると、みないなくなってしまいました。私が忘れることのできない食口たちまでも、みないなくなりました。私が懇切な手紙を書いて、人を遺わして伝達した人がいたのですが、その人のところに行ってみると、その人も既に変わっていました。「先生が神様の息子なら、どうして監獄に行くようなことがあるのか。先生の教えは、すべてよこしまなものだ」と言って、手紙も何も受け取りもせずに、「異端の人物が現れたな。また異端の行いをしようと訪ねてきたのか」と言ったというのです。それで、その手紙を持って、避難してきました。慶尚北道(キョンサンプクト)の永川(ヨンチョン)に行くと線路があり、その横にできた道路に橋があります。その時、釜山に下るために、永川のその橋を通ったのですが、持ってきたその手紙を、もう一度読んでから、破って投げ捨ててしまいました。その時が一九五一年一月十八日です。
そのような忘れられない事情がたくさんあります。あれほど熱心な信仰をもっていた人も、信じられない背信者となって離れていくことを、私は既に知っていました。監獄にいた時、その人の霊が来て挨拶をすると、泣きながら「私は離れることになりました」と、自分の事情を話すので、「そんなことがあるのか」と思っていたのですが、案の定、その時に離れていったのです。
避難民生活とその苦難真のお父様は、一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チャリョン)駅に到着され、金元弼と共に、待合室でバター缶を使って御飯を作り、飢えをしのいで最初の夜を過ごされた。当時、釜山は避難民でごった返していた。翌朝から、ソウルの黒石洞の家に住所だけを残して、避難してきていた郭魯弼を探し、三日間過ごされた。そして、一月三十一日、偶然にも日本留学時代の友人である嚴徳紋(オムドンムン)に出会い、嚴徳紋の強い勧めを断り切れず、すぐに富民洞(プミンドン)にある一間の彼の借り部屋に移り彼の妻と二人の子女ら、四人家族と共に、窮屈な生活を始められた。一週間、み言を聞いた嚴徳紋は、ひざまずき、「あなたは私の友ではなく、私の先生であり、偉大な聖人であり、哲人です」と告白した。真のお父様と金元弼は、四月初旬頃、草梁駅の裏にある、労働者の宿所として使われていた狭いバラックに入って十日ほど過ごし、道で偶然出会った、興南の獄中の弟子である金元徳(キムウォンドク)の槐亭洞(クェヂョンドン)の家にも半月ほど滞在され、解放前に電気会社の職員社宅として使われたボムネッコルの入り口の家で、五月から八月まで、四ヵ月ほど下宿された。また、第三埠頭で荷物を運ぶ仕事をしながら半月ほど過ごされた。ある時は、日当たりの良い森の中や、防空壕でも眠られるなど、涙ぐましい避難民生活をされた。そして、もらった御飯を召し上がり、時には見知らぬ家の軒下に身を寄せられた。
5 釜山に着くと人で超満員でした。部屋はどこに行っても空いていませんでした。ごみ箱や空箱のような所にも二、三人の人がいました。韓国の全域から避難してきた人々がすべて釜山に集まったのです。まるで、煮え返る釜のようでした。足の踏み場もないほどでした。町はいつも超満員で、まっすぐに立っていても、押されていくような日常生活だったのです。
釜山に来たのに、着る物もなく、食べ物もないので、一銭でも稼がなければなりませんでした。そのような環境で様々な仕事をしながら、新しい教会運動を始めていきました。また、家がありませんでした。その時は二月なので寒い時期です。夜に仕事をして、夜中の十時から十二時頃に帰ってくるので寒かったのです。ですから、オーバーを膝までかぶせて、海老のように身をすくめて眠ったことが今でも印象に残っています。その時かぶったオーバーを、記念として残しておくようにと食口に預けたにもかかわらず、ぼろぼろのオーバーだといって捨ててしまいました。今それが残っていて、皆さんが目にすれば、見ただけで涙をぽろぽろと流すほど記念になるオーバーでした。そのようなことをしながら、一歩一歩、歩んできて今日の基盤を築いたのです。
6 嚴徳紋氏は学生時代の友人ですが、その友人に、水晶洞(スヂョンド)の十字路にある朝興銀行の前で、雨の降る日の昼の十二時頃に出会ったのです。出会うなり我知らず叫んでしまい、道行く人たちがみな振り返りました。嚴徳紋氏は、私に会うとは思いもしなかったそうです。私が北朝鮮で死んだものと思っていたのです。嚴徳紋氏は私に会うなり、「自分の家に行こう」と言いました。今でもそのことを感謝しています。大勢の人が絶えず避難してきたために、家という家の軒下にまで座り、夜を明かすしかなかったのです。ですから、午後一時、二時の最も暖かい時間にオーバーをかぶって、近くの山に登り、岩の間に座って寝ていた状況で、嚴徳紋氏が家に連れていってもてなしてくれたことは、今も忘れることができません。
お父様の興南監獄以降、釜山までの路程は、四ヵ月という長い期間でしたが、皆さんは、お父様の服がその間にどれほど汚れたか、想像もできないでしょう。服があまりにも汚いので、裏返しに着ていました。また、寝られるような場所もありませんでした。そのように薄手の服を着て下ってきた時が十二月だったので、とても寒かったのです。釜山に着いてからは、寒さを避けるために、夜に基地の埠頭に行って働きました。仕事をするほうが、寝るよりも楽だったのです。そして、昼は山に登って、林の中で寝場所を決めて眠ったり、一人の時間をもったりしました。
8 お父様は、釜山に避難してきて、波止場のほとりでも寝て、山の中でも寝ました。おもしろいというのです。軍人の外套を敷いて寝る時は、二月の初めなので寒かったのです。夜は寒いので、出掛けてお金を稼ぎ、昼は十時から二時の間に寝ます。その時は日当たりの良い所に行き、じっと座って、雉(きじ)のようにしっかりと寝場所を定めて寝れば、それで良いのです。寝て起きて服を着ると、金サッカ(李朝末期の放浪詩人)の詩が思い浮かびます。そうしてお金ができ、お粥を食べたくなったら波止場に出掛けるのです。波止場のほとりのおばさんたちが、冷めるのではないかと布切れで小豆粥を包み、自分のかわいい一人息子を抱いて愛するように、大事に手渡してくれます。このお粥を買って食べるのです。その時は、その人たちが友達でした。
凡一洞の土塀の小屋で新しい出発真のお父様は、一九五一年八月、釜山市東区凡一四洞一五一三番地、ボムネッコルの一番奥、水晶山の中腹に、小さな土塀の家を造られた。石と土だけを積み重ねて造ったところ二回も崩れ落ち、三回目にようやく完成した。中は二坪に満たない部屋が一つだけだった。別途に台所はなく、外の片側に釜を一つ置いたかまどがあった。その横に足を伸ばし、腰をかがめてようやく出入りできる、高さ一メートルの出入り口があった。腰を伸ばせないほど低い屋根は、戦闘糧食の段ボール箱でつなげてあり、晴れた日は空が見え、天気の悪い日は雨が降り注いだ。雨が降ると、部屋の片隅に小さな泉が湧き、下からは溝を流れる水の音が聞こえた。山のほうの煙突を通って入ってきた水は、部屋の下を通り、かまどへと流れ出てきた。床には何重にもむしろを敷き、その上にかますを三重、四重に広げて敷いたあと、さらに幅と長さのある敷布団を広げて敷いた。真のお父様は、一九五一年の後半期には、金元弼の仕事の世話をしながら内的準備に力を注がれた。朝早く出勤し、夜遅く帰ってきた金元弼は、副業で、アメリカ軍の軍人がもつ写真を見て肖像画を描く仕事をした。一枚四ドルの絵を一日に十枚前後、多いときは三十枚まで描いた。真のお父様は、『原理原本』を執筆しながら、夜には釜山市内や海を眺めて摂理の未来を思い浮かべられ、早朝には山に登って涙の祈りをされた。
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