2 私たちが結んできた絆は、立体的な絆です。それは、今まで歴史上にあった何かの思想を基調として現れたものではありません。神様の心情と神様の創造理想を基調として、本性の人格を標準として始まった絆です。これは、あらゆる絆の核心なので、絶対視しなければなりません。その絆がここ青坡洞で現れました。「青坡」とは、青い丘を意味し、青い丘というのは理想を象徴しています。彼岸の理想世界を望みながら歌う人々が暮らす所、生き生きとした希望を謳歌するのが青坡洞です。ですから、平面的な四位基台を出発できる基盤が、青坡洞の統一教会本部だというのです。
3 青坡洞の本部の場所には、昔、ある寺があったのですが、日本統治下の時代に日本人が所有していた建物です。これがまた、歴史的な建物なのです。一九五五年に、当時、西大門刑務所に入っていた私が釈放され、行き来する所もないので、非常手段を使って手に入れたものです。自ら用意したのです。
最初、ここはお化け屋敷のようでした。真っ黒になっていた柱をすべて洗濯用の苛性ソーダで磨いたのです。
歴史的な因縁がぶつかり合った家です。「この家から、怨恨に満ちた恨を解かなければならない。むちを打った群れを屈服させなければならない。(私を)追い出した群れを、逆に追い込まなければならない」という信念をもって歩んできました。今もその信念は失っていません。いくら一人でいても、天下をつかんで打てる気迫は、いつも宿っています。
4 私たちは、韓国を生かせる旗を立てなければなりません。その旗が高々と掲げられる先々で神様の勝利をたたえるため、私たちはここに集まりました。この場所は、外見的に見れば何でもありません。お父様は、土窟のような、とても小さなみすぼらしい家で暮らしながらも、世界を一度指導してみようという夢をもっています。ある人は、青坡洞の本部教会の建物を見て、「統一教会は世界的に話題になっているにもかかわらず、本部の建物はどうしてこんなにみすぼらしいのか」と言います。お父様が見てもみすぼらしいのです。屋根が壊れてめちゃくちゃです。それでもそれをそのままにしておくのは、壊れたその瓦屋根を直すお金がないからではありません。屋根を直すそのお金を節約して、民族のために使うためです。
これがいつか芽を出して育つ日には、この民族は統一教会を理解するでしょう。私たちが、この民族のために闘ってきたという歴史的な事実を知るとき、この民族は痛哭するでしょう。三千里の山河にそのような一日が来ることを宿願としながら、その日を迎えるために今も進軍しているのです。私の家に傷がつくことが問題ではありません。この国と、この民族に傷がある以上、私の家は安らかではいられません。
5 これからは、本部の権威を守らなければなりません。本郷を見たいと思い、行きたいと思い、暮らしたいと思って、(本部を)慕わしく思う彼らに対し、何度見ても永遠に見たいと思い、また会いたいと思い、暮らしたいと思う心を一層かきたててあげ、士気を高揚させてあげなければなりません。神様に代わって全人類と向き合うことができる立場に立てなければ、本郷の人ではありません。
そのように会いたくて訪ねてくる外国の食口たちを、一日、二日、あるいは一年でも喜んで迎え、額を突き合わせて暮らせる心をもたなければなりません。また、彼らが私を好きになれば、私が彼らと苦楽を共にして過ごそうという、ゆとりのある心の準備をしておかなければ、祖国であり本郷だといって訪ねてくる多くの外国の食口たちに、大きな傷を与えることは間違いありません。
青坡洞は、今日の青坡洞で終わるのではありません。これから統一教会が建てられるあらゆる所から、数多くの食口たちがこの韓国を「本郷の地、祖国の地」と思いながら訪ね、それ以上に青坡洞を愛して訪ねてくるでしょう。かといって、私たちの現在の環境的な不備を落胆する必要は全くありません。今後、人々は、良い場所を選んで雄大な中で礼拝を捧げる所を慕うのではなく、正に青坡洞のここを慕いながら訪ねてくるのです。
本部教会は歴史的聖地ソウル青坡洞一街の旧本部教会には、一階に礼拝堂、二階に真のお父様の寝室、協会本部事務室、式典会場、相談室および職員の宿所などがあった。当時、日曜日になると、聖殿が手狭になるほど食口が集まった。真のお父様のみ言によって恩恵が夕立のように降り注ぎ、礼拝の雰囲気はいつも神霊に満ちていた。毎日行われる劉孝元協会長の原理講義を通して、食口はさらに復活した。聖殿は、常に精誠を捧げる年配の女性をはじめとした食口たちであふれ、霊的な役事が相次いで起こった。祈りと涙と笑い、報告と証、原理講義と賛美の声が途絶えることのない、心情の溶鉱炉であった。また、ここは、真の父母様の聖婚式と四大名節の制定、真の子女様の誕生、三十六家庭、七十二家庭の祝福式などが行われた歴史的なゆかりのある、始まりの地である。全国の食口が旧本部教会に向かって敬拝をしたり、祈りを捧げたりするなど、すべての精誠がここに集められた。青坡洞の旧本部教会は、真の父母様の涙の跡がにじむ神聖な祭壇であり、歴史的聖地である。そのため、み旨を知る人であれば、世界各地からここを慕い、訪ねてくるようになる。真のお父様は、むやみに改造してはならず、原形を大切に保存しなければならないと語られた。ここは、たとえみすぼらしかったとしても、歴史的な事情と曲折がしみ込んでおり、懐かしさにかられる聖なる所だからである。
6 統一教会の本部は、ソウルの青坡洞にあります。皆さんは、果たして本部にいる資格があるでしょうか。言葉では言いませんが、お父様は一日に数十回も涙を流します。お父様がどのように過ごしているのか、側近たちはみな知っているでしょう。お父様は一言語っただけで、ひたすら痛哭するのです。非常に敏感な人です。三千里半島に散らばり、この時間にもおなかをすかせた立場で哀切な祈りを捧げる食口がいて、自由のない環境で迫害を受け、困難に遭っている食口たちがいます。そのような食口たちに心情関係を伝達すべき媒介体が皆さんです。本部にいる人は罰を受けるとしても、より大きく受けます。ですから、お父様は新しいみ言を語るたびに、本部では語りません。先に地方に行って語り、それから本部で語ります。本部にいる人たちより、地方にいる人たちのほうがたくさん祈ります。本部にいる人として、「天地に恥ずかしくない」と言える人にならなければなりません。
7 皆さんは、青坡洞の本部の写真を見たり、本部を思い出したりしただけでも涙を流す人がいることを知らなければなりません。また、皆さんは、痛哭しながら訪ねてくる彼らを、心から喜んで歓迎し、切実な心で接してあげ、心の友となって慰めてあげることができなければなりません。
皆さんは、本部で生活しながら、今まで関係を結び、共に風霜を経てきたので、無事に天のみ前に祝福を受け、天のみ前に誇れる人たちになるようにしたい、というのがお父様の気持ちです。
8 狭い本部教会にたくさんの人が座っているので、無理があることは知っています。しかし、これは私たちだけが知っているのではありません。神様はもっとよく御存じです。このような姿をこの世の人が見れは、あざ笑うかもしれませんが、お父様はそのように思いません。神様に「私たちの教会を建ててください」とは祈りませんでした。このような場にいることを、むしろ光栄に思っています。
本部教会で、ある集会が行われるとき、入り口の後ろで押し合いへし合いしながら、先を争って入ろうと大騒ぎです。これを哀れに見るのではなく、これを御覧になる神様の切ない心情を慰めてさしあげるために、「一時はこのようなことがあってもよいのではないでしょうか」と祈ることができる心をもって参席しなければなりません。このような人がいてこそ、これからこの世を蕩減復帰できるのです。
このような環境は、悲惨な境地にいる私たちの民族だけがもち得る真実な財産であり、蕩減復帰し得る材料になるのです。このような環境が、不幸の要件ではなく、むしろそれによって神様の内面の事情に深く入っていくことができ、私たちの教会を造ってあげたいと思う神様の心情的な基準を、私たちに連結させることのできる恵沢と恩賜の条件になるというのです。
9 これから青坡洞の本部教会を、全世界の人々が訪ねてくるようになるでしょう。夢のような話ではありません。私がここで暮らし、ここでみ旨を探し求めて歩んできたので、私が指導する理念に従って、国境を越えて訪ねてくるでしょう。家を新しく建てようとすれば、すぐにでも建てられます。しかし、この家は歴史的な行事をした所であり、天地が痛哭した所です。多くの人が痛哭した場です。血を流し、身もだえしながら訴えた場です。永遠に忘れられない曲折によって流された涙の跡がにじんでいる所です。涙がしみ渡った聖なる祭壇です。(それを知らずに)適当に入って、適当に出ていく所ではありません。お父様は、そのようにしませんでした。
10 お父様が精誠を尽くしたこのすべての基盤を、皆さん自身が蹂躙してはいけません。統一教会が神様の六千年歴史を経て天のみ旨と向き合ってきた教会であるとすれば、この道を通ってきながら、涙の跡を残せる歩みのできない人は、天の人になることができません。私はそのように信じています。
この床に涙しながら伏して祈るとき、この場が、千年、万年、父が待ち望んできた希望の一つの基盤であることを感じてみたでしょうか。骨髄からにじみ出て、血肉が結ばれた心情で、自分の一身のあらゆる意識を忘れ、涙だけで始まり、涙だけで終えることはできない悲しみと切なさが、自分を占領したことがあったでしょうか。そして、自分の環境を忘れて訴えた時が皆さんの生活の中であったかというのです。もしそれがないというとき、お父様がそれ以上の立場を通して基盤を築いておいた土台があれば、その土台の精誠が皆さんを讒訴するでしょう。
お父様も、神様が億千万世の受難の道を歩まれながら、み旨のために尽くした精誠が私を審判するだろうと思います。その精誠を中心として、私が審判の場に立つので、それが最も恐ろしいのです。精誠を尽くした神様のみ前に、いかにして同情を受ける一時を私の環境に残すかという問題を中心として、この上なく身もだえする生活を、お父様はしてきているのです。
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