興南監獄の収監者たちにとっては、御飯と休憩ほど大切なものはなかった。しかし、真のお父様は、忠母様が面会の際に持ってきた服と食べ物を、他の収監者たちに分け与えるなど、困難な状況でも、かえって神様を慰労し、蕩減復帰路程を歩むべき孝子、忠臣、聖子としての道を歩んでいかれた。真のお父様は、獄中で最も困難な仕事を一手に引き受けて行うなど、模範的な監獄生活を送られたため、共産党から三度にわたって模範労働者賞を受けられた。サタンからも認定されたのである。
1 興南の監獄で囚人たちは、少量の食事と重労働で、常に栄養をきちんと摂取できずにいました。胃は常に働かなければならないのですが、次の日の朝、起きると、自分のおなかが板のようになっていることに気づきます。それが共産党の労働者収容所の生活です。
監獄から作業場までの距離は、一里以上の道のりでした。毎朝監獄から作業場まで歩いていく時は、手をつないで四列に並ばなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちが監視しています。もしも、列が乱れたり、手をつないでいないことが発見されたりすれば、その人たちは脱出をたくらんでいるとみなされるのです。ですから、自分の頭をまっすぐに上げることができません。いつもこのような状況でした。
お父様はそのような環境の中で、どのようにして生き残ることができたのでしょうか。人間は肉身だけではありません。もしも囚人たちが、食べ物だけを食べて生きるようになっていたならば、彼らは死んでいたはずです。精神力が重要です。
2 お父様は、興南の監獄にいながら、ほかの人の二倍まで仕事をしようと決心しました。仕事をするたびに、常に試験を受けていると考えたのです。より一生懸命に仕事をするとき、私の肉身がどのような影響を受けるのかを分析し、研究しました。時々速度を上げると、私の体が変化しました。もし普通に仕事をしていれば、私の体はどのように反応していたでしょうか。
私の組の十人の中には、何人か体の弱い人もいました。ですから、自分のノルマを完遂できない人たちの分を補うために、私のノルマ以上の仕事をしました。毎日そのようなことを続けました。作業をする間に御飯のことを考えていれば、働くことができません。ですから、仕事をする時、御飯のことは考えませんでした。常に、そうするような運命に定められている、そのような仕事をするために生まれてきたと考えました。まるで復帰摂理を行うかのように、常にすべての心情と誠意をその仕事に注いだのです。
3 お父様は監獄で作業する間、常に霊界で経験したことを考え、後日、子孫たちや従う人々に見せてあげる映画の主人公であると考えました。お父様に従う人々や子孫たちは、私が仕事をするのを見ながら感動するだろうという思いをもって働きました。
作業は、午前九時から始まり、十時過ぎに十五分間の休憩時間があるのですが、その時間にトイレに行きます。しかし、お父様は決してそのことを考えませんでした。休憩時間を告げるベルが鳴っても聞こえませんでした。周りに誰もいないことに気づいて、初めて休憩時間であることを知りました。体は仕事をしていましたが、霊は休んでいたのです。そのような精神で働いたので、体重が減らず、ほとんどそのままの体重を維持しました。体重がほとんど減らなかったというのです。ですから、看守たちはとても驚きました。
また、働きに行くたびに、常に最も困難な仕事を探して、それをしました。数ヵ月後、最高の労働者と呼ばれるようになりました。脱出の陰謀を企てることができないように毎日組み替えをしたのですが、組を新しく編成するたびに、囚人たちはみな、この最高の労働者と同じ組になることを願ったのです。お父様の後ろには多くの人たちが並んでいました。
4 お父様は、青春時代に疲れ果てそうになる時も多かったのですが、疲れ果てないようにしようとどれほど気をもんだか分かりません。それは、ただ何もせずにできることではありません。囹圄(牢獄・獄舎)の身になったときも、「神様、私に同情なさらないでください」と言いました。困難な状況でも、絶対に祈りませんでした。深刻でした。一週間でも、一ヵ月でも話をしません。これは何を意味するのでしょうか。難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を絞り、最高の精誠を込めて、私によって神様がこの難しい環境を打開できる道を、いかにして模索するか」と考えました。
私によって私が救いを受けようと考えたのではありません。「この難しい心情的動機をつなげて、いかにして神様が痛哭し、悔しさと無念な思いをもちながら、これを強く打つことができるようにするか。怨讐の敵陣を撃破できる心情の爆発力をいかにして刺激させるか」という面を考えたというのです。そして、「早くここから出なければならない」とは考えませんでした。おなかがすけば、「腹よ、空腹になるならなってみよ」と思いました。これから世界が行かなければならない蕩減復帰路程を掲げて、空腹以上に深刻な立場で、神様を強く抱き締めて涙を流した時はありましたが、その場を免れるための努力はしなかったというのです。
5 千万の男がみな後退してしまうような峠がいくらでもあります。監獄に入って、「私がこの死の場で生き残るためには、御飯を半分だけ食べても生きようという決心をしなければならない」と思い、二、三週間、私の御飯の半分を他の人に分けてあげました。他の人の半分だけ食べて生きようというのです。ですから、いつでも心理的に御飯を食べなければなりません。半分しか食べられない境遇で、さらに半分もらって食べられるという心理的余裕が、生命を引っ張っていける力になることを発見しました。数ヵ月もすると体に変化が起こる理由が何か、すべて分かるので、死にゆく若い青年たちをたくさん生かしてあげました。
6 自分の体力を保全するためには、運動をしなければなりません。お父様が興南の監獄にいる時に考案した運動法があります。この運動をすれば、とても効果があります。そのようなことを続けたので、私は食べるのは少しですが、精神力で補充しながら体を鍛錬してきました。今の体とそれほど差はありませんでした。少しやつれていただけです。その時、監獄にいても、約七十二キログラムはありました。他の人たちは、ただ骨と皮ばかりになり、背中がやや曲がって、屍のように感じるほどでしたが、私は絶対に、そのようにはなりませんでした。
7 興南の監獄にいる時、普通の人たちは日曜日には休みます。あのきつい重労働をして日曜日になると、どれほどうれしいことか、それこそ安息日だというのです。ただありったけの力を振り絞って土曜日の夕方までは、どうにか我を忘れて働きます。正気ではありません。肥料工場に出掛け、仕事をして帰ってきたあとは、骨の髄から参ってしまいます。ただぐったりとするのです。御飯さえ食べたら、そのあとは倒れて起き上がることもできません。土曜日の夜と日曜日は、それでも自由が与えられるので、その場で食べて寝るのです。
しかし、寝るのが災いのもとです。お父様は三年近くその監獄にいましたが、昼寝を一度もしませんでした。絶対に昼寝をしないのです。心に決めた睡眠、心に決めた食べ物以外は欲しませんでした。
8 人は死ぬ時に、王子なら王子の権威を備えて死ななければならず、忠臣なら忠臣の姿勢を備えて死ななければなりません。のたれ死にすることはできません。お父様は、興南の監獄にいる時も、体を拭き、毎日のように冷水浴をしました。一日中肥料の山で仕事をしたので、硫酸アンモニウムが体に付いていて、皮膚がただれる可能性があります。そのような体を、夕方に飲むように与えられる水を飲まずに、明け方に起きてその水で手拭いをぬらし、冷水浴をしたのです。「出役(働きに出掛けること)!」という声がして準備するその時間に、サッサッサッサッと拭きました。
収容者たちに、便所で使うような水で沐浴させていましたが、私は死んでもその水ではしませんでした。ですから、水を飲むことが問題ではありません。自分の体を保護しなければならないのです。私は監獄にいながらも、ふくらはぎを人に見せたことがありません。いい加減な生活はしませんでした。興南の監獄で「獄中の聖者」という名前を残した人物なのです。
9 天に侍る人は、監獄にいるからといって、体をなおざりにすることはできません。これ以上ないほど疲れる労働をしても、座る場所を選んで座り、土曜日や日曜日には昼寝をしたことがありません。他の人たちは、重労働をして帰ってくると、御飯を食べるやいなや寝てしまいますが私はそのまま寝たことがありません。監獄で一緒に生活する人たちは、重労働で疲れて先に寝るので、お父様の寝る姿を見たことがないという話が出たのです。そして、明け方には誰よりも早く起きます。また、夜は必ず一人で運動をします。そこでは飲み水がどれほど貴いか分かりません。一口の水が命と同じです。
そして、小さな部屋に数十人がいるので、夏の暑い時には、汗をかき、服を脱いで絞れば汗水が出るのです。ですから、ひしゃくで何杯も水を飲まなければ生きられません。自分の体を清めた、その立場で天に侍るのが道理です。
そこでは、どんなに暑くても自分の肌を見せませんでした。肥料工場から出てくる肥料が窯で熱せられて出てくるので、どれほど暑いでしょうか。そのような暑い所でも、下半身を見せませんでした。貞節を守る女性以上の訓練をしてきたのです。いくら監獄での生活が険悪でも、私の行く道を遮ることはできません。
10 興南の監獄に入って肥料工場で仕事をするとき、とても暑い陰暦五月から六月の盛夏でも、お父様はズボンの裾を締めるひもを結んで仕事をしました。すねも出しませんでした。最近は半袖の服も着ますが、昔はそのような服が本当に嫌いでした。私の体を神様のみ前に捧げなければならない神聖な道が残っているので、神様のために精誠を尽くすところでは、誰にもこの体を見せたくないと思ったのです。ですから、一人で寝る時も、手足を広げて眠りませんでした。上に神様がいらっしゃるというのです。寝る時にも礼法があるのです。
11 私が共産党の統治下で監獄生活をしていたときは、要注意人物でした。その監房には、誰々を監視せよという命令を受けた二、三匹の犬がいました。その犬というのは、動物ではなく、「臭いを嗅ぐ人問」だというのです。それが分かったので、私は話をしませんでした。半月たつても話をしませんでした。そして、日曜日は寝ないことで有名でした。また、明け方に起きて冷水摩擦をすることで有名でした。
いくら困難な環境に置かれていても、天に侍る責任があります。地獄に行っても、そこで天国人としての生が光り輝かなければなりません。いくら薄手の服を着て寒くても、いくら追われる哀れな立場にいたとしても、自分が選ぶべき天との関係を優先させてきました。
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