梨花女子大学と延世大学の教授および学生たちの退職・退学事件は、真のお父様の受難へと続いた。キリスト教団体は、統一教会で起きた神霊の役事を、様々な流言飛語で妨害した。一九五五年七月四日、真のお父様が兵役法違反と徴発特別措置令違反の容疑で警察に連行、拘束される、いわゆる「七・四事件」が起きた。その後、教会幹部の四人も相次いで拘束された。
1 韓国の全国民が統一教会に反対しました。反対しない人はいませんでした。政府から教会、学校、宗教団体はもちろんのこと、家庭がすべて反対しました。お父様が悪く、統一教会が悪いために反対を受けたのではありません。
歴史時代の誤ったことや悪いことをすべて私たちにかぶせて、反対する要因をつくりました。キリスト教が私たちを憎み始めたのです。賢い人なら、統一教会の原理を聞けば、一週間以内にみな復帰されます。
当時は、原理のみ言をお父様が指導しました。ですから、来る人来る人、みな霊的現象を体験するようになりました。もし教会に行かなければ、霊的に気合を入れられたりしました。このようになったので、大変な問題になったのです。理論的に聞いてみると、賢い人たちはみな統一教会に行くので、でうすることもできず私たちをたたき潰すためにありとあらゆることをしたのです。
2 キリスト教徒たちは統一教会に対して、最初はキリスト教の歴史における邪教集団を悪く言いながら、「彼らと同じだ」と言いました。すべてをなすりつけるのです。そのようにして十年ほど過ぎると、情報機関で調査するようになりました。しかし、十年以上にわたって広がったうわさを、四十日しか調査しなかったのです。四十日間調査をして、「何もない」と言いましたが、それは、その機関が知っているだけであって、国家的に「統一教会の文某は何の問題もないので、これまでの話はすべてうそである」と言ったわけではないというのです。お父様が無罪判決を受けた時、新聞記事には数行しか載りませんでした。そのように全国的に広まった否定的な印象を何によって変えられるというのでしょうか。
ですから、統一教会の宣伝をしても反対し、そのうわさをひっくり返そうとしてもみな反対しました。それで、法的問題になって闘争が起き、警察部で私たちを調査した内容をもって「統一教会はそのような所ではない」と発表しても、信じないというのです。また、警察がそのように言うとすれば、すぐに「統一教会員たちが買収したのだ」と言っているのです。
3 夫婦で仲良く暮らしながら息子、娘をしっかりと養育し、「夫がいなければ生きていけない」と言っていた女性たちが、統一教会に入ってきたあとに変わったのです。教会に来て、午後五時になれば、家に帰って夕飯の支度をしなければならないのに、み言が始まると再び座り込んで、夜通しみ言を聞くというのです。当時は、明け方の四時まで語りました。平均二時間睡眠でした。
家で「教会に行ってはいけない」と言っても行くので、問題が起きました。「死んでも行く」と言うので、教会の牧師たちが中心となって反対したのです。篤実な信徒たちが病気になったというのです。そのようになると、ありとあらゆるぬれぎぬを着せられました。しかし、お父様は「かまわない。すべてかぶせてみよ」と言って弁明しませんでした。西大門刑務所の事件が起きた時にも、調査の結果、無罪で釈放されました。しかし、私が無罪で釈放されたことをキリスト教で言及するのを、一言も聞いたことがありません。
4 統一教会員たちが激しく反対され、迫害されていた頃は、おばさんたちが、買い物かごを下げて「市場に行く」と言って出ていくのですが、気がついてみると統一教会に着いているのです。そのようなことが普通に起こりました。珍しいことでもありませんでした。ですから、狂ったとか、何か電気装置を仕掛けたと言うのです。そのようなことが起きました。
実際の生活に影響を及ぼすというのです。そうならざるを得ません。催眠術のようなものも、そのような体験を通して可能になるのです。神様を中心として神霊的な道に通じれば、そのようにならざるを得ないというのです。祈りの能力がどれほど偉大かを、皆さんは知っているでしょう。その境地で、そのようなことが起きるというのてす
5 梨花女子大と延世大の事件の時にも、政府の五大長官(大臣)が出てきてお父様をたたき、統一教会を全滅させようとしました。罪状がないので、兵役忌避でたたこうとするのです。兵役忌避でたたこうとして、彼らは、「年齢を二歳も上げて兵役を逃れようとした」と言いました。ところが、いくら調査してみても、引っ掛かるものがないので、無罪で釈放されたのです。
6 私が、梨花女子大と延世大を中心として、六十日間ほど伝道をしてみると、二つの大学が大騒ぎになりました。放っておけば大変なことになりそうなので、お父様を異端として追い払い、ぬれぎぬを着せましたが、いくら調査しても罪がなかったのです。家庭を破壊し、人妻を強奪したとして調査してみても、何もありませんでした。ないというのです。
それで仕方がないので、今度は「兵役逃れをした」と言ったのです。私が兵役忌避をしたでしょうか。六・二五動乱のとき、私が頭を刈っていたために、初めは人民軍だと思われました。私が「軍隊に行く」と言ったにもかかわらず、「軍隊は駄目だ」と言われ、兵役免除に該当する「丙」の字を押されたのです。ですから、引っ掛かるところがありませんでした。そのように引っ掛ける罪状がないので、三ヵ月間騒いだ挙げ句、無罪で釈放したのです。
大部分の人は、私が無罪放免になったことを知りません。キリスト教の牧師たちは、お父様が無罪で釈放されたことを知っていますか。無罪と言っても、新聞はその記事をとても小さく載せたのです。統一教会員たちが「声明を出しましょう」と言いましたが、反対声明が問題ではありません。監獄に入ったことが問題になるのです。大韓民国が私を裏切りました。私はこの国を怨讐視すべきところですが、この国を復帰するためには、世界を経由して帰ってこなければなりません。蕩減復帰をしなければならないのです。
西大門刑務所での収監生活真のお父様は、囚人番号三百九十番を付け、金元弼、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)など、幹部四人の弟子と共に西大門刑務所に入監された。記録に残る面会の行列をつくった食口たちに対し、真のお父様は、決して動揺しないことを願われた。一方、看守をはじめとする刑務所の幹部と監房の囚人たちの中には、真のお父様の人格に感化され、敬意を表する者もいた。
7 一九五五年に西大門刑務所に入ったことがあります。その時、「統一教会の文先生はああだこうだ」と言って、大変なうわさになりました。私が手錠をかけられて入ると、拘置課長が私を呼び、気合を入れようと乱暴に振る舞いました。私は心の中で、「あなたが一ヵ月以内に私に屈服するかしないか、今に見ていなさい」と思いました。
最初、入る時には、動物園の猿でも見物するかのように、猿扱いしようとしたのです。ですから私は、「どれ、あなたたちがやりたいようにやってみなさい!私はあなたたちのようなつまらない男ではない」と思いました。こうして一週間以内に、そこにいる看守たちをすべて意のままにしました。監獄でも「先生」という言葉を聞くようになりました。出所する時には、所長まで出てきて、「文先生!」と言ったのです。
8 私が西大門刑務所にいるとき、そこの拘置課長が、私のことをあざ笑いました。そのとき、私は相当に気分が悪く、一言、釘を刺しておいて、「ここで必ず所長まで屈服させて出ていこう」と考えました。何日か過ぎると、その人が朝、私の所に来て、「ぐっすりお休みになりましたか」と言いました。ある時は、じっとしていると、朝やって来て、そのままさっと通り過ぎます。「あなたはただ通り過ぎていくが、行く途中でまた戻ってこなければならない」と考えると、案の定、振り返るというのです。そうして、こちらに来てから、また行くのです。私が「あなたはもう一度来て、挨拶をしなければならない」と考えていると、また、そのようにするというのです。ある日、拘置課長が私のところに来て、「朝、餅を作って食べたのだが、餅が喉に引っ掛かってのみ込めない」と言うのです。餅がなぜのみ込めないのでしょうか。先祖が引っ掛かるようにしているというのです。彼の先祖たちが、お父様を冷遇すれば大変なことになると知っているので、そのようにするのです。ひそかに餅を作って食べたら、ひどい目に遭ったというのです。
私はそのようなことを既に知っていました。ですから、そのような話をしてあげたところ、私を見て「先生」と呼ぶのです。そのようなことがあってからは、お父様の言うことをよく聞いてくれました。そうこうするうちに、私が出る頃には、所長まで訪ねてきて、夏だからといっては、まくわうりを買ってくれたり、すいかを買ってくれたりするようになりました。そのようにしながら、兄弟の間でもできなかった話をするのです。お父様と一緒に生活する数ヵ月の間に、自分が(今まで)経験したことを話すのです。私が証をしてもらおうとして、彼を伝道するでしょうか。お父様が伝道しなくても、伝道されるというのです。
9 西大門刑務所で監獄暮らしをするとき、お父様に会おうと食口たちが必死の思いで面会に来ました。監獄暮らしをするお父様と面会すれば、それは歴史に残ることです。その時の面会証を持っている人たちに対して、あとで表彰します。それを持っている人がいれば、結婚する時に胸に抱いていき、その家庭の宝物として大切に保管しなければなりません。
監獄から出てくる時は、看守たちや所長まで出てきて見送り、看守たちの中には、お父様に従って教会に通うようになった人もいます。このように、天が行く道には怨讐が現れますが、必ずその道は開拓されるというのです。アベルになるためには、必ず神様と一体にならなければなりません。どのような受難の道を行くとしても、自分一人で行くと考えてはいけません。神様は、サタンの讒訴を受けない場で、アベルを決定するのです。
真の宗教は監獄から出発します。サタンも嫌う人間たちの集まったその世界でも、普通の人間がもつ、それ以上の希望と望みをもつようになれば、そこから新しい世界の歴史が出発します。そのようにしてこそ、サタン世界の讒訴を受けることなくまた高い位置に上がっても干渉されません。そこから、新しい世界まで連結される新しい出発の起源が生じます。そこから神様と一つになるのです。
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