12 監獄では、夕方に御飯を食べてしまえば、することがありません。ただ座って時間ばかりやり過ごさなければなりません。話すことしかすることがないので、世間話から何から、話題にならない話がありません。一番初めは自分が罪を犯した話から、自分の親の話など、すべて出てきますが、それから何ヵ月か過ぎると、話すことがありません。何も話さなかった人は私しかいないのです。ですから、私に話をしてくれとせがむようになっています。
それで、「どんな話をしてもいいのか」と念を押したあと、短編小説、長編小説を作って話をするのです。毎日のように小説を一編ずつ語るのです。誰の小説でもなく、どこかの文学作品に既にある内容ではありません。私が題名をつけて創作するのです。私には、そのような頭があります。長編小説を一晩でも何編もつくり出すことができます。顔を見ながら三日くらい話をしてあげれば、どんな話をしても、しきりに「おもしろい」と言うようになります。そのあとは、私が一番隅の狭い所に座っていれば、何度も引っ張り出されるのです。「嫌だ」と言っても、監房長が何度も引っ張り出すのです。私はどこに行っても最も悪い場所、便器の横で過ごしていたのですが、私が「出ていかない」と言えば、監房長が「私がそこに座るから、あなたはあそこに座りなさい」と言うのです。それが、本然の世界です。
13 収容者たちにとって最もうれしいこととは何でしょうか。監獄でも一度、思う存分に休みたい、仕事をする時間でも一度休みたい、というのが切実な望みです。ですから、作業する組を編成するときに、互いに仕事が上手な人同士で組になって超過達成をしようとします。仕事をすれば、私は誰にも負けません。何でも上手にやります。肥料かますを縛って運ぶにしても、何の仕事をするにしても、やれば、誰かに負けたりしません。ですから、私と同じ組に編成され、私が指示するとおりに働きさえすれば、組のノルマを早く終えます。そのようにして普通、午後一時半から二時には終えてしまうのです。それは誰も付いてくることができません。
御飯のことを考えていては、御飯が人を捕って食べてしまうのです。御飯のことを考えてはいけません。仕事をするなら、その仕事をおもしろく思って、「きょうは私が昼食時に一かますでも多く縛ろう。人よりもたくさんやろう」という一念で、一かますでもより多く縛ることに楽しみを感じながら働けば、疲れません。そうしてこそ、体を保っていくことができます。かますをいくつか片づけただけで「御飯を食べよう」と考える人は長続きしないのです。
14 肥料をかますに入れて秤に掛け、かますを運ぶのに、私たちの組は五分から十分かかりますが、私は平均五分間でやってのけます。他の組は十五分かかります。このように時間がかかっていては、責任分担を果たすことができません。山を崩していきながら秤を移動させるのですが、秤を四、五メートル以上移していれば遅れます。ですから、ほとんど動かさずに行う方法を研究しました。誰もこの方法のとおりに従わないので、仕方なく一人でしました。そのようにして、お父様が千三百かますのうち半分以上を一人でやっていると、みな良心があるので付いてくるようになるのです。
お父様は模範労働者でした。共産党から毎年、模範労働者賞をもらいました。その頃は体重が七十二キログラムでした。外見からはそれほど体重はないように見えますが、骨が重いのです。ほかの収容者たちはやつれていくのですが、私はやつれませんでした。ですから、あらゆる人の研究対象でした。
15 興南の肥料工場の硫酸アンモニウムには硫酸が入っているので、肌に付くとひび割れして、毛が抜けるようになります。肌が肥料かますに触れるので、ひび割れるのです。朝、血がぽたぽた流れます。硫酸アンモニウムがひび割れたところに入り、朝になって血が出たりすると落胆しかねません。それでも、「お前たちがいくらそのようにしても、私は生き残らなければならない」と思いながら、それを克服しなければなりません。これよりひどくなったとしても、やらなければならないというのです。
そこで人間の精神力がどれほど偉大かを知りました。そのような環境に少しも屈せず、堂々と最高の位置に立つことができたのです。ですから、監獄にいる人たちまでも、あとからお父様のことを尊敬するようになりました。仕事ができる誰それといって、賞をもらいました。そのようなことが起きたのです。結局は切り抜けたというのです。どんなに困難な監獄でも切り抜けていく余力がなければなりません。それを克服できなければならないということです。
空腹と寒さを克服しなければなりません。暑さはそれでも克服しやすいのです。また、睡眠を克服しなければなりません。たとえ死んだとしても、「お前は負けずに、勝利して死んだ」という思想を残さなければならないと思いました。このような基盤を霊的に残さなければ、再び地上で活動できる基盤を失ってしまうと考えたのです。
16 私が精誠の限りを尽くし、涙で勧告しながら教えた人たちが、興南の監獄でたくさん死んでいきました。そのような所でも私を呼びながら、「私の両親に、私はこのように死にますが、あなたと共に良い日を過ごしたと伝えてください」と言って、死んでいった人たちがいます。その時は、どれほど空腹だったか分かりません。御飯を口に入れて、かみながら死んでいく人もいます。するとその横にいる人たちが、先を争ってその御飯を取り出して食べるのです。それは、皆さんには理解できません。
そのような場所で、父母にならなければならず、そのような場所で、兄にならなければなりませんでした。そのような場所で、「私がこのようにしているのだから、あなたたちも倒れてはいけない」と言って、私が見本にならなければなりませんでした。ですから、そのような環境で、お父様は毎年表彰を受けました。他の人たちが「難しくてできない」という仕事があれば、私が行って、その仕事をしました。互いに易しい仕事をしようとする中でも私は最も難しい仕事を探し回ったのです。
17 私は学生時代に、共産主義の理論を勉強した友達と理論闘争もしてみましたが、その理論どおりにしてはいけないと思い、共産主義者たちと闘ってきました。共産主義がどのようなものか、詳細に知っています。(興南)監獄の組織は、共産党の組織の中で最も緻密な組織です。そのような中でも、お父様は自己批判をしませんでした。二年五ヵ月の間、自己批判書を書きませんでした。それで、要注意人物になったのです。
そのような中で、黙々と一等の労働者にならなければなりませんでした。生き残る方法は、それしかありません。少しでも後退し始めれば、生き残れないのです。ですから、すべてのことにおいてチャンピオンです。誰も私にかないません。肥料を詰めることにおいても私が一番であり、運ぶことにおいても、縛ることにおいても、また貨車に積むことにおいてもそうです。ですから、毎年、表彰されたのです。
監獄で花咲かせた真の愛真のお父様は、最悪の場でも天に背くことなく、かえって天を慰労された。そのため、監獄の囚人はもちろん、ひいては共産党員たちまでも、真のお父様を尊敬し、従ってきた。特に、監獄で勝利する道は、ために生きて自らを犠牲にする道しかないと考え、真の愛を実践された。真のお父様は、死の道でもイエス様の恨を解き、再臨主の使命を果たそうとされたのである。
18 私が監獄にいる時、はったい粉をもらっても、一人では食ベませんでした。すべて分けてあげました。そのように分けてあげてみると、私の食べる分がなくなり、横の人たちが集めて私にもってきてくれるということが起きたのです。ですから、そこにいる人たちは、お父様に対して何も言えません。
また、三十人以上が一つの部屋で寝るのですが、私が最も悪い場所で眠りました。寝ている途中で起きて用を足しにいこうとすれば、便器が隅にあるので、人を踏みつけていくことになります。あまりにもぎゅうぎゅうに詰めて寝ているので、強く押しても駄目なら、足で蹴りつけるのです。そのようなことがよく起きました。
しかし、その人たちが、私に足蹴りをしてしまったとしても、次の日の朝に来て、「すみませんでした」と言います。ほかの人であれば、「きのうの夜、なぜそんなことをしたんだ」と言ってけんかが起きるのです。また、急ぎの時には、私のおなかを踏んで越えていったとしても、私であることに気づけば、「気がつかなくてすみません」と言います。お父様はそのように生きました。
19 私が興南の監獄にいる時、母が定州から興南にまで来て私に会おうとすれば、証明書を十八枚ももらわなければなりませんでした。母がそれをもらって、息子のためにと、はったい粉を持って訪ねてくるのです。はったい粉を作る米や麦があるでしょうか。あとで知ったことですが、村中を回りながら、物乞いをしたそうです。遠い親戚の所に行って、「息子がこのようになってかわいそうなので、哀れに思ってください」と涙を流しながら物乞いをして、はったい粉を作り、毎月持ってきてくれました。また、冬には凍え死ぬのではないかと思って母が服も作って持ってきてくれました。
そのようにして持ってきてくれたはったい粉を、その場ですべて分けてあげました。私一人で積み上げて、食べることはできません。良心が許しません。服は、囚人服を着ることはあっても、面会に来た時に持ってきてくれた綿入れのズボンの服は着ることができません。何年監獄にいても、面会に来る人がいない人がたくさんいます。彼らの前でそれを着て自慢する立場には立てません。その服も、もらったらすぐにすべて分けてあげました。そうして、破れた囚人服、肌の見える服を着ました。そのように風になびく服を着ている姿を見るとき、母はどれほど唖然として言葉が出なかったでしょうか。聖子の行くべき道は、このような道です。聖子の道理、愛国者の道理、忠臣の道理を果たそうとすれば、このような道を行かなければなりません。
20 興南はどれほど寒いか分かりません。「冬の風が吹くと、砂利も飛ぶ」と言われる所です。面会に来た母が息子を見ると、冬に下着も着ずに、ほとんど破れた単衣の囚人服をそのまま着ているのです。ですから、「持ってきてあげた下着はどこにやったのか。持ってきてあげた綿入れの服はどうしたのか」と尋ねました。母から見れば、はらわたが煮えくり返るのです。
私は母に、「自分よりもかわいそうな境遇の人にあげました。震えても一緒に震え、飢えても一緒に飢えようというのに、それが悪いでしょうか」と言いました。堂々としているというのです。天地の何人の前でも堂々としています。
そうすると、母が来て私に忠告します。「お母さんの事情も知らず、そんなことができるのか」と言うのです。「お母さんがお前のためにこのように準備してきたのに、それを誰が人にあげなさいと言ったのか」と言うのです。ですから、私が母に向かって、「私はそのような金某の息子ではありません。私は、そんなお母さんをお母さんと思っていません。むしろ(お前は)母親よりも立派だと褒めながら、『欲しい物があればもっと持ってきてあげよう』と言うべきなのに、それが忠告だと言うのですか」と言うと、母はただただ大粒の涙をぽろぽろとこぼしました。そのことを、私は忘れることができません。
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