13 私は、私自身を管理し、天のみ旨を選別していく正当な人生を、日陰のもとで送りました。サタン世界より、もっと日陰である監獄に入っていっても(そのように)暮らしたのです。むしろ監獄が避難所になりました。
私が監獄に入った時、私の父と母がどれほど泣いたか分かりません。私が「勉強をしたら、国を生かす」と言って、父と母が世話をしてくれたのに、学校を卒業してから監獄に入るとはどういうことかというのです。
私は監獄を訪ねていきました。共産世界に入っていって、誰よりも共産主義を分析しました。アメリカの監獄、日本の監獄、韓国の監獄、北朝鮮の監獄をすべて経験したのです。
14 北朝鮮に行って、三度も監獄暮らしをしました。共産主義に対して少しの未練ももたせないための天の作戦であり、共産圏内にあるキリスト教に関心をもたせなようにしようとする神様の作戦でした。共産圏内にある教会も信じることができないように、すべて切ってしまう作戦であり、その国も信じられないように切ってしまう作戦でした。一切を否定させるための作戦だったのです。韓国で反対を受けさせるのも、アメリカで反対を受けさせるのも「未練をもってはいけない」ということです。すべて切ってしまうのです。
今やすべての峠を越え、過ぎし日を振り返ってみれば、これはすべて、天がより貴いものを与えるための作戦だったのです。より大きいもの、より貴重なもの、より無限なものを与え、祝福の道を開拓するための神様の祝福だったというのです。ですから、今後は、定着したものを誰も占領できません。それこそ、このような受難の道を通して、サタンが占領していたすべてのものを完全に取り戻し、引き渡そうとする天の愛だったというのです。
15 今まで、私は、迫害を受けるのが好きで、このことをしたのではありません。悪口を言われるのが好きで、このことをしたのではありません。嫌ですが、嫌な味よりもっと良い味があるので、このことをしてきたのです。霊界に一度行ってみれば、どこの誰に対しても羨む必要のない味があるので、このことをするのです。このみ旨の味を知り、この世界を捧で打てば粉々になってすべて砕けるという実感が湧くので、このことをするのです。
皆さんは、お父様が生来、体が鋼鉄のように丈夫で、健康だからそのようなことをするのだと思うかもしれませんが、そうではありません。嫌なことをどうしてするのですか。一年、二年だけしてみなさいというのです。死んでしまうでしょう。それを良いものと思うから耐えられるのであって、疲れてやりきれないと思えば耐えられません。これを全うすれば、素晴らしい何かがあるので、このことができるのです。
16 神様は、私を愛していらっしゃいます。それを、私はよく知っています。しかし、私は生涯を捧げて神様を信じてきましたが、神様のみ前に抗議したいと思う時が一度や二度ではありませんでした。私が死地に入ると、神様は「知らない」とおっしゃるのです。
しかし、分かってみれば、「知らない」と言う父母の心は、どれほど胸が痛むだろうかというのです。助けてあげられるのなら、手足をおとなしく縛られたままにしておくのではなく、動いて千回でも、万回でも助けてあげたいでしょう。しかし、そのようにしてしまっては、統一教会の文という人が行く運命的な道を解決できないので、神様はそのような場で、第三者の立場に立たざるを得なかったのです。
17 私が道を歩む中で孤独なときに、神様が私を呼んで、「誰々よ、私がいるではないか」と言って勧告してくださったことを思い出します。そうすると、孤独な立場が問題ではありません。「私一人だと思ったのに、あなたが私と共にいらっしゃるのですね」と言って、力強く歩いていくのです。
ある時は、道を行く乞食を見ながら、「あの乞食が、私を訪ねてきた(天の)お父様の姿であればどうするか」と思って、痛哭に痛哭を重ねたこともあります。このような心をもって、どんなにみすぼらしい服を着た乞食だとしても、その手を取って人知れず痛哭できる皆さんにならなければなりません。私はそのような立場を何度も経てきました。
苦痛の中に一人いる孤独な立場で、「お父様は薄情な方でもあられるな。お父様は無慈悲な方でもあられるな。責任だけ任せておいて面倒は見てくださらない」と考えることもあました。ところが、そのたびに神様は、「誰々よ、お前が乞食を抱きかかえているとき、私が共にいた。誰々よ、お前が塗炭の苦しみの中で哀れな人と共に涙を流しているとき、私が共にいた」とおっしゃいました。
ですから、この道を行かずにいられますか。それで、イエス様も、「空腹のときに食べさせ、かわいたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し」(マタイ二五・三五)、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ二五・四〇)とおっしゃったのです。
18 神様の戦法は、打たれながら奪ってくるというものです。サタンは先に打って滅ぶのです。第一次世界大戦の時も打った側が滅び、第二次世界大戦の時も打った側が滅びました。第三次世界大戦は思想戦ですが、共産主義が世界を打っています。
ここで私は、最も代表的に打たれています。大韓民国が私に反対し、アメリカが私に反対しました。また、日本が私に反対し、中国が私に反対し、世界が一つになって私に反対しましたが、反対した悪なる世界の福を引き継いでくるのです。悪魔は、天地のすべての福を引き継ぐことができません。「終わりの日」になって、サタンはこの福を真の人に引き継いであげなければならないのです。
19 お父様は、神様のみ旨を疑つたことがありません。さらに、神秘的な未開拓の地を知りたいという気持ちで訓練しなければ、その時まで知っていたすべての基盤が流れていってしまうのです。次元の高い基盤を相続するためには、必ずその基盤に相当する蕩減を払わなければなりません。ですから、迫害を受けるようになるのです。
しかし、その迫害は悪いものではありません。それは、自分を完成させてくれるためのものです。ですから、監獄に行くことが問題ではなく、生死が問題ではありません。そのように生きて死ぬようになれば、霊界で何十倍、何百倍貴い所に行くことを知っているので、何の不平も言う必要がないのです。
20 監獄に入っていき、むち打たれて血を吐きながら倒れる時にも、神様のみ前に自分自身を心配する祈りはしませんでした。「お父様、私は、昔の預言者たちやイエス様と違います」と、心の中で誓いながら耐えてきました。「神様、私を助けてください」というような、つまらなくて男らしくない、弱々しい祈りはしませんでした。ただ神様のためにだけ祈り、それ以外には祈らなかったというのです。
神様が期待と希望をかけているのに、囹圄(牢獄・獄舎)の身になったと言って泣き顔で「助けてください」と祈ることはできません。日本統治下で、日本人たちに追われ、北朝鮮でも共産党に追われ、民主世界でも追われました。しかし、追われたとしても、世界に進んでいくのです。いくら迫害して追い立てても、行くのです。
21 イエス様は十字架を前にしてオリーブ山で祈るとき、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。私の思いというのがどこにあるでしょうか。(弟子たちは眠りました。)このことでサタンに引っ掛かったのです。イエス様の思いと神様のみ意が一つにならなかったというのです。
そのことを知っていたので、拷問を受けて血を吐く場でも、「私はイエス様と違います。私の血は神様のみ意のためのものです」と言いました。神様のために血を根こそぎ捧げようと考えたのです。
私は困難なことがあっても祈りません。天が知っているのに、「神様、私を助けてください!」と祈ることはできません。全体が生きることができる方向を、私の体で教示するのです。そのような目標を中心として、今まで絶対信仰、絶対愛をもって歩んできました。一生の間、血の涙が流れる谷間を越えながら、神様を愛し、一体の心を抱いて進むのです。
22 お父様は一人です。夜の灯台のようなことをしています。夜、船に乗っていく人には灯台が貴重ですが、昼は、誰も灯台を重要視しません。灯台守を好む人はいません。その灯台守の役割をするのです。昼には分かりません。ですから、どのようにして灯台を昼間の太陽に変えるかというのです。それが蕩減復帰です。人間を中心として光を放ち、永遠に、神様の本然の太陽のように変えてしまおうというのです。灯台を太陽に変えなければならないのですから、それがどれほど難しいでしょうか。そのようなことを考えてきたのです。
監獄に入っていても、「第二の監獄はどこだ。第三の監獄はどこだ」と考えながら歩んできました。第六の監獄に行きながら、第七の監獄まで考えた人です。ソ連と中国の監獄に向かっていくべき道が残りました。それを準備していましたが、神様が守ってくださいました。その代わりに、死ぬ前に監獄以上の国を訪ねていくのです。ですから、ソ連に行きました。ソ連に行く時も、周囲から「どうか行かないでほしい」と反対を受けました。夜の監獄を解消するために、昼の監獄を訪ねていくのです。私が監獄に行き、私によって助けになったならば、昼になるのです。
23 お父様は今まで、一生の間、迫害を受けて追われましたが、滅びませんでした。本質的方向があるからです。自分を中心としてこのようにしたのではありません。より善なる人のために、より善なる位置のために、より未来に近づくことができる事情を標準としてそれを主張し、それを中心としてそこに合うように教育し、そこに合うように生きようとしてみたところ、迫害は受けるのですが、天地すべてがお父様を擁護するのです。
男性なら男性が行くべき道、家庭なら家庭が行くべき天理原則があります。その原則に一〇〇パーセント符合するときには、天地がすべて協助するようになっているのであって、破綻させることはできません。破綻させれば、天地のすべてが壊れていきます。この自然のあらゆる原則基準が混乱し、崩壊してしまうのです。
24 天国に入るためには、完成したアダムの位置、天使長が最後まで保護できる祝福の位置に立たなければなりません。そのような原理基準があるので、サタンの讒訴を越えて、怨讐を愛したという条件を立てなければ、天国に入れないのです。怨讐を愛さなければ、行くことができません。私も一生の間、このことをするのです。
ダンベリー刑務所に入っても、そのことをしました。私がダンベリーに入る時、アメリカの朝野で歓呼しましたが、私はダンベリーで彼らを愛しました。本然の愛をもって愛したので、サタン世界は頭を上げることができません。それを克服していきました。そこから新しい世界が開かれるのです。
25 世界各国が方向を失ったとき、お父様が中心になって、昼夜なく行くべき方向を開拓してきました。お父様が蕩減の道を経てくる時には、自分という意識がありませんでした。イエス様も十字架に釘打たれたとき、自分という意識がありませんでした。イエス様はローマ兵士らについて、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と祈ったのです。そのようにして、未来にローマを占領できる条件を立てたのです。お父様も同じです。
日本の監獄、北朝鮮の監獄、韓国の監獄、アメリカの監獄まですべて通過してきましたが、そのたびに忘れなかったのは、愛の綱を切ってはいけないということでした。獄中にまでも、愛の綱を引き入れたのです。電線はどこを通ろとも、それを連結すれば、発電所の電気が切れない限り、電気がつくようになっています。神様の愛の電気も、電線さえ連結されていれば、どこでも電気がつくようになっているというのです。皆さんもそこに連結されれば、その電気によって復活すると同時に、新しい生命を得ることができます。
このように、はっきりとした希望の道があるというのです。それが私たちの幸福です。そうして、十字架の道を笑って越えていく立派な人間になるとき、サタンは後ろを振り返ることもなく、逃げ出していくというのです。このような人になるとき、復帰完成という結論が出てくるのです。
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