10 すべての人が「死ね」と言い、「滅びろ」と言ったにもかかわらず、私は滅びませんでした。なぜ滅びなかったのでしょうか。人々が罵(ののし)れば罵るほど、私が孤独であれば孤独であるほど、涙を流して私を慰労する人が次第に増えたからです。
私が刑務所に入っていれば、我先にと刑務所に面会に行こうとするのです。また、統一教会員たちは、午前八時以降に面会ができるのに、夜中の一時から列をつくって座りながら待っているのです。それが、西大門刑務所での記録です。ですから、人々が「人々を狂わせるにしても、どうやったらあそこまで狂わせることができるのか」と言ったのです。午前八時が過ぎてから面会ができるのに、夜中の一時から列をつくっているというのです。前日から来て座っている人もいました。
11 私が西大門刑務所に数ヵ月間いた時、人々は私を「統一教会の文某」と呼びました。おかしな話のようですが、刑務所に入ってみると、自分を王様のように思っていない人がいません。すべての人が横柄に振る舞うのです。
しかし、私は、私を見て何と呼ぼうと、何も答えずに黙って座っていました。入ったその日から黙っていました。一ヵ月でもそうしていることができ、二ヵ月でもそのようにしていることができます。しかし、一、二週間ほど過ぎると、彼らが私に気兼ねするようになりました。朝、起きてみると、私が祈っているのです。それをどうして止めることができるでしょうか。私は、彼らの中で一番の厄介者と言われる人、みなから「死んでしまえばよい」と思われているその人を連れ、一言、二言、言葉を交わしながらよく諭しました。「以前はあれほど厄介者だった人が、文という人が来てからその人が変わった」と言われるようになりました。こうしてしばらくたつと、人が話したわけではありませんが、監房の人たちの間で、その人が文某の言うことをよく聞くと、うわさになったのです。なぜなら、私も彼らのことを思う立場に立ち、大韓民国に代わり、大統領ももち得ない心情をもって、現在の韓国の運命と未来の韓国の運命、そして、この民族がもつべき国民思想を中心として、彼らのために涙を流し、祈ったからです。心情の主人になっているからです。善なる責任者の前には頭を下げなければならないのが天理原則であることは間違いありません。
12 刑務所でお父様を苦しめた人たちの顔が今も目に浮かびます。監獄の中でお父様についてのうわさが広まっても、一言も語りませんでした。西大門刑務所にいる時、監房の中にいるすべての人たちが、お父様のことをとても慕っていました。ですから、訪ねてくる人がたくさんいました。私を冷遇していた人たちが会いに来れば、すぐに彼らの心を看破して、「これからはそのような気持ちで私の前に来てはいけない」と叱りました。
また、そこにいた、牧師だという人は、お父様が異端であり、怨讐の立場だといって、最初はものすごい剣幕で、「あなたが主張する教理とはいったい何だ」と言って食ってかかってきました。しかし、最後には決まつた時間に訪ねてくるようになり、とても親しくなりました。うわさが大きく広がったので、刑務所の所長までが会おうとしたのです。
一緒に監獄に入った弟子たちも、熱心にお父様に従って侍るので、人々が「世の中があれほど罵り、反対していても、あそこまで徹底しているとは。なるほど、統一教会の文先生はただ者ではない」と言いました。お父様の立場は、このように、卑しいように見えましたが、最高に貴い立場であり、誰かに「代わりになりなさい」と言っても代われない立場です。どんなに大口をたたく人でも、絶対にできないのです。
13 人々は、「文某は不気味な人だ」と言って、色眼鏡をかけて見ますが、過去を考えてみても、私は恥ずべきことは一つもありません。誰かがそうなるように仕向けたか、でなければ、私がそうだったのか、二つのうち一つのはずです。誰かがそうなるように仕向けたとすれば、それは、そのように仕向けた人の責任です。そのようにさせた人は滅びますが、そのようにされた人は栄えるのです。悪なるものは滅びるのであり、善なるものは栄えます。純粋で、天下の歴史が公証する真の立場に立った場合は、滅びることはありません。手錠をかけられて歩いていくとき、通りがかりの女性たちまでも、横目で見ながら顔をしかめるのを見て、「よしあなたたちが歩くその足取りは高潔に見え、ここにいるこの男は哀れに見えるが、まだ比較する基準が現れていないから分からないだけだ。しかし、その立場が明らかになる時には、正否の判決が下るだろう」と考えて、今まで歩んできました。
14 お父様は、統一教会を中心に大韓民国を率いて出発すべきでしたが、監獄に入りました。監獄に入ってからも、「いつ出られるのだろうか」とは考えませんでした。監獄で十年間暮らそうと、あるいはそこで死のうと、み旨のための道であると考えて、泰然としていました。ほかの人とは違いました。その場で修練をしたのです。
何の修練をするのでしょうか。このすべてのことをいかに是正して、今後、生き甲斐のある道を行くかを考えました。泰山が幾重にも立ち塞がっていれば、トンネルを掘って高速道路を造ってでも行くのです。そうして倒れれば、神様が責任をもちます。しかし、気力が残っているうちは、神様の助けは要りません。それまで、自分のために祈る必要もありません。そうして、私の気力が尽きたにもかかわらず、み旨に私が必要であれば、「協助しないでください」と言っても神様は協助されるのです。
15 今日、統一教会が前進していく立場で、皆さんの一日一日の生活全体を、どれほどその時間圏内で、実感をもって全体化し、展開させるかが問題です。その深さ、あるいは高さを、キリスト教が出発した当時と比較してみた場合に、私たちのほうが大きければ、私たちは急進的な発展、急進的な勝利を成し遂げるでしょう。それから、敗者の悲しみを味わわなければなりません。顔を上げられないほどに羞恥を覚えてみなければならず、恥もかかされてみなければなりません。お父様にもそのような時がありました。西大門刑務所に行く前に法廷に立った時、かつてお父様に従っていた人が、「北朝鮮でも監獄暮らしをして、ここに来ても監獄暮らしをするのを見ると、まだその癖を捨て切れていないのだな」と言いました。その言葉を、私は今も忘れずにいます。
私は一生の間、監獄を出入りしながら闘ってきました。このすべての怨恨を集めて進んでいけば、その怨恨をすべて解いて余りある時が来るはずです。ですから、疲れようにも、疲れることができません。いくら唇が腫れ上がり、体の調子が悪くても、得意げになっている怨讐の背中を、私が両足で踏み越えていくまで、私は行くつもりです。サタンに対して最後まで闘っていくのです。
第三節 西大門刑務所からの無罪釈放 無罪で終結した「七・四事件」一九五五年十月四日、真のお父様は、ソウル地方裁判所で無罪判決を受け、釈放された。食口たちは、喜びと感激で真のお父様を迎え、三日後、奨忠洞(チャンチュンドン)から青坡洞へ教会を移転し、十日に出獄歓迎会を行った。真のお父様は、平壌で自ら作詞された「聖励の新歌」を歌われ、新たな決意をされた。
1 一九五五年、梨花女子大事件などによって、国家全体が騷ぎ立て、私を捕まえて監獄に入れようとしました。李承晩政権を中心として、そのようなことをしたのです。罪を暴こうとしたところで、私には罪がありませんでした。あらゆるひどいぬれぎぬを着せようとしましたが、罪として引っ掛かるものはなかったのです。
その時は、北朝鮮から下ってきたので、頭を刈っていて、私が軍隊に入隊しようとすると、人民軍ではないかと疑われ調査の結果、軍隊に入れなかったのです。ですから、軍隊に行きませんでした。環境のためにそのようになったので、罪には引っ掛かりません。ですから、無罪で釈放されたのです。
その事実を、キリスト教徒たちは全く知りません。その時、今のように宣布していればよかったのですが、そのような時ではありませんでした。私が行く道には、世界的基準を中心として背負うべき十字架があります。
個人的十字架の道で敗者にならず、勝者になったといって、誇ってはいけません。その個人的勝利基盤の上に、家庭的十字架が訪れてくることを忘れてはいけません。
2 お父様が監獄に入ったことは、新聞に特筆大書してうわさを立てておきながら、無罪で釈放されたことは、とても小さな一段の記事を書きました。(それで)今までそのことを知っている人がいなかったのです。その時、監獄から出てきて闘っていれば、どれほど格好が良かったでしょうか、(しかし、)闘わないことによって、根まで引き抜いてしまったのです。
歴史上でお父様に反対した人は、根まで引き抜かれます。(彼らの)子女たちは、自分の父母が正しい牧師であり、正しい忠臣だと思っていたのに、実は逆賊の立場にいたことを知るようになるでしょう。(自分の)父母が、天の道理を尽くした天地の大父母(真の父母)に反対した逆賊の立場にいたことが分かった時、その子女が、父母の墓を掘り起こす日が来るでしょう。うやむやにする話ではありません。
3 自由党政権の時代に、五大長官(大臣)が私をたたき潰そうとしました。当時、文教部、内務部、外務部など五つの政府機関に、李承晩博士が特命を下し、「統一教会をなくしてしまえ」と通告したのです。調査したところで、何があるでしょうか。自分たちがうわさをすべてでっち上げたのです。白白(ペクペク)教の教主の話をしながら、ぬれぎぬを着せておいて探ったのですが、何の罪状も見つかりませんでした。裁判をしても何もないので、約九十日後に出てきたのです。
当時、世の中はみな、(私のことを)罪人だと思っていました。私は世界でも、そのことで罵られながら歩んできました。それでも、なぜ四十年間、黙っていたのでしょうか。打たれて奪ってくるのです。最も悪い人だと思って私をたたき潰そうとしてきても、「あなたたちのほうが滅びる。私を一度打ってみなさい。打てば自分たちが窮地に追い込まれ、木っ端みじんになるだろう」と考えながら歩んできました。私は何も間違っていません。
4 一九五四年に、統一教会という看板を掛けて出発するようになりました。その時もやはり、韓国において国家的な反対が起こりました。全体が反対しました。監獄に入る事件が起きたのです。
三年間は、常に蕩減をしなければなりません。原理がそのようになっています。蕩減復帰がそのようになっています。間違いなく、公式は公式どおりに適用されていくのです。当時、大韓民国がお父様をたたいて踏み潰そうとし、キリスト教と政府が一つになって、ありとあらゆることをして葬り去ろうとしました。しかし、公判廷で無罪の判決を受けて釈放されることによって、統一教会は存続できたのです。
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