5 無罪で釈放とは何でしょうか。無罪で釈放されたならば、大韓民国が私に補償しなければなりません。大韓民国は有罪だと宣布し、お父様は無罪だと言うのです。神様の法から見ると、「罪のない人に苦労をさせたとすれば、大韓民国、お前は有罪である。そして、文先生は無罪だということが分からないのか」と、このようになるのです。
大韓民国で反対する核心要員はキリスト教徒です。キリスト教徒は、神様を信じる群れでしょうか、神様に反対する群れでしょうか。「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)という聖書の聖句が成就しなければなりません。キリスト教が罪を犯してしまったというのです。罪を犯した人をかばう人は、関係者となり、その犯罪の共犯者になります。ですから、大韓民国が滅び、キリスト教が滅びることはあっても、お父様は滅びないのです。
西大門刑務所での受難の意味真のお父様の五度目の監獄となる西大門刑務所での受難は、一部のキリスト教指導者たちの扇動と、否定的な世論を背景にした李承晩政権が引き起こした宗教弾圧と見ることができる。天が下さった、大韓民国からキリスト教を基盤として世界的に広がっていく機会を失い、統一教会は再び荒野路程を経ていくようになった。
6 お父様は滅びませんでした。大勢の人たちが、「統一教会の文某は裸になって踊る」と言いますが、私が本当に裸になって踊って批判されたのなら、恨むこともないのです。裸になって踊るのを見物したこともないのに、裸になって踊る魁首にさせられています。そのようにして、大韓民国の国民が福を受けられるなら、いくらでもしなさいというのです。私という一人の人間を打って呪うことによって、この民族が福を受けられるなら、それは善いことです。
ですから、すべてを甘受しようというのです。彼らが民族を愛し、国を愛する愛国心の発露からそのようにしたのであれば、私がそれを神様のみ前に神聖で義なるものとして紹介してあげましょう。
7 再創造の摂理は、お金によって成されるのではありません。権力によって成されるのではありません。知識によって成されるのではありません。真の愛によって、初めて成されるのです。
私は西大門刑務所に入りましたが、「大韓民国よ、滅びよ」とは言いませんでした。「キリスト教よ、滅びよ」とも言いませんでした。「彼らが気づかずにいる罪をお赦しください。哀れな大韓民国が犯した罪を蕩減するために、私にすべてを負わせてください。私を批判して福を受けられるのなら、どれほど良いでしょうか」という思いをもちました。そのような思いをもっているうちに、時代が過ぎ、一つの峠が過ぎました。
種を蒔けば、それを刈り取る時は、何百倍、何千倍になったものを刈り取るように、これからは、何十倍、何百倍も大きな愛の救いにつなぐことができるのです。天理の愛の道理を通して、生命の根が繁殖する原則に従って種を蒔けば、何百倍、何千倍のものを刈り取ることができます。この宇宙の愛の懐で、そのようなことが起きるのです。
8 お父様は、三千万の民族が「異端の魁首だ。滅びよ」と言っても滅びません。理由もなく打たれたのなら、損害賠償を受けなければなりません。このようなことをしようとするので、時にはみすぼらしい姿にならなければならず、時には後ろ指をさされなければなりませんでした。
この道を開拓しながら、あらゆる苦難に遭いました。そのたびに、「神様はこれよりもひどい風霜を経てこられたのに、私がどうしてこれしきの風霜を経ずにいられるだろうか!」と考えました。公的な立場で受けた、そのような事情が多ければ多いほど、人が手にし得ない宝物を倉庫いっぱいに満たすことができるのです。
9 韓国においても、監獄から出発したのが統一教会の歴史です。呪いと背反と迫害の道から始めました。私は骨のない男ではありません。西大門刑務所に入っていた時、拘置課長という人が私を見て言った言葉を忘れません。死んでも忘れられません。一ヵ月もたたないうちに、彼らが私を訪ねてきて、「昔、聞いていた統一教会の文某と、今、(実際に)知った文某は違う」と言って謝罪するのを、この目ではっきりと見ました。
正義は、どんなに残酷な迫害の鎖の中でも勝利することを見てきたのです。ですから、正義の道は大変ですが、神様が求めているその群れの道に責任をもっていく道なので、落胆するのはやめようというのです。私は、落胆しませんでした。受難のむちの跡があまりにもたくさん残っているとしてもその時に受けた傷は、何ともないというのです。
10 平凡なことをも、絶対的な価値の基準に上げるのは、受難の境地でのみ可能です。皆さんが、獄中生活の中や、厳しい飢饉の状況に立たされれば、分かるでしょう。試練や受難は悪いことではありません。試練や受難の中で、生命の価値を立てていく力と希望と欲求をもった人にとっては、その試練と受難の困難が、困難としてだけで終わるのではなく、未来における喜びの刺激となり得るのです。また、未来の喜びだけでなく、希望の国を訪ねていくことができます。
困難を克服しようとする希望をもっていれば、その場から喜びの天国を成就することができます。困難を克服しなければ、どんな希望も成就されないので、愛の神様は、この先に迫りくる試練の舞台を克服できるように、人間を鍛錬させるのです。ですから、その鍛錬の過程は、鍛錬自体で終わるのではなく、喜びの刺激をより価値あるものとして感じられる、一つのプレゼントとして下さった受難の道だというのです。このように考えるとき、その受難は悪いことではなく、困難も悪いことではありません。それが、私たちの幸福の基盤となり、あすの幸福を相続できる要因になるのです。
11 孤独な道を一人、開拓者の使命と先覚者の使命をもってたどってきても、お父様は、孤独な立場でぶつかる出来事について、一切話しませんでした。命を懸けてきましたが、私は孤独な人ではありません。皆さんの同情も要りません。私は幸福な人です。
天地の大主人であられる神様が、私を理解してくださるので、いくら拷問で血を流し、身が引き裂かれ、筋が断ち切られる立場になっても、私は不幸ではありません。愛する息子をこのような立場に立てられた神様の心情は、それ以上に切ないことを知っているので、不幸ではないのです。その場で天をつかみ、天を慰労できる国を探し出そうと苦労しているので、どんなに拷問がひどくても、それが問題ではありません。重なり合う十字架の道が立ち塞がっていたとしても、その十字架の道が私を敗北の困難と絶望の環境に追い込んだとしても、お父様はそこで、新たな決心と新たな希望をもって歩むことを決意するのです。
12 今までの歴史の過程を見る時、歴史の主人公は、その時代で受難の峠を克服しながら、その国の希望を抱いて闘ってきた人たちです。そのような人たちが、歴史の主人公です。聖賢たちは、天意に従い、人間の世の中で肯定するものを否定するのみならず、世の中の方向を変え、希望の世界に向かって自分の一身を捨てて、その理念とともに環境の試練を克服してきた人です。
その聖賢の人生は悲惨ですが、その心の内で受けたすべての苦しみが、かえって喜びの世界と関係を結ばせる動機になったのです。
これまで統一教会が受難の道を歩んできたのは、統一教会を滅ぼすためではありません。あすの春の日を迎え、世界により光となる統一教会へと発展させる神様の愛があったからです。
13 私は、西大門の通りを、刑務所に向かって手錠をはめて歩いても、恥ずかしいとは思いませんでした。天地を見る時に、恥すかしいことはありませんでした。堂々としていたというのです。出所する時になって、四人ほどの看守たちが、「統一教会を信じます」と言ってきました。所長も私と何回か会いました。「世間で悪いと言われている男がこのような人だとは」と思ったのです。統一教会員たちが面会しようと、先を争うようにして門前に列をつくっていました。元気な青年男女たちが、明け方から列をつくって私に会おうとするのを見て、「ああ、よく知らなかったのだな」と感じたというのです。私たちは、そのような道を歩んできました。
皆さんは、過去に統一教会に反対していた教会と国から追い詰められ、追い出されて、囚人服を着ていたお父様を忘れてはいけません。囚人服を着て手錠をはめられ、裁判長の前に立ったお父様を忘れてはいけないというのです。今や無念なその時期を越え、私たちにも時が来ました。芽が出る春の日が来たので、地に種を蒔けば、芽が出るでしょう。
しかし、反対するところには芽が出ないでしょう。私たちが民族と同胞に代わって、これまで歴史的に築き上げてきた生命の偉業、愛の偉業をそのまま継承して立てるようになるとき、現在のキリスト教は今のところは私たちと怨讐になっていますが、その背後にいる数多くのキリスト教徒たちの行く道が、ここから開かれるのです。
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