真のお父様の五度目の監獄となる西大門刑務所での受難は、一部のキリスト教指導者たちの扇動と、否定的な世論を背景にした李承晩政権が引き起こした宗教弾圧と見ることができる。天が下さった、大韓民国からキリスト教を基盤として世界的に広がっていく機会を失い、統一教会は再び荒野路程を経ていくようになった。
6 お父様は滅びませんでした。大勢の人たちが、「統一教会の文某は裸になって踊る」と言いますが、私が本当に裸になって踊って批判されたのなら、恨むこともないのです。裸になって踊るのを見物したこともないのに、裸になって踊る魁首にさせられています。そのようにして、大韓民国の国民が福を受けられるなら、いくらでもしなさいというのです。私という一人の人間を打って呪うことによって、この民族が福を受けられるなら、それは善いことです。
ですから、すべてを甘受しようというのです。彼らが民族を愛し、国を愛する愛国心の発露からそのようにしたのであれば、私がそれを神様のみ前に神聖で義なるものとして紹介してあげましょう。
7 再創造の摂理は、お金によって成されるのではありません。権力によって成されるのではありません。知識によって成されるのではありません。真の愛によって、初めて成されるのです。
私は西大門刑務所に入りましたが、「大韓民国よ、滅びよ」とは言いませんでした。「キリスト教よ、滅びよ」とも言いませんでした。「彼らが気づかずにいる罪をお赦しください。哀れな大韓民国が犯した罪を蕩減するために、私にすべてを負わせてください。私を批判して福を受けられるのなら、どれほど良いでしょうか」という思いをもちました。そのような思いをもっているうちに、時代が過ぎ、一つの峠が過ぎました。
種を蒔けば、それを刈り取る時は、何百倍、何千倍になったものを刈り取るように、これからは、何十倍、何百倍も大きな愛の救いにつなぐことができるのです。天理の愛の道理を通して、生命の根が繁殖する原則に従って種を蒔けば、何百倍、何千倍のものを刈り取ることができます。この宇宙の愛の懐で、そのようなことが起きるのです。
8 お父様は、三千万の民族が「異端の魁首だ。滅びよ」と言っても滅びません。理由もなく打たれたのなら、損害賠償を受けなければなりません。このようなことをしようとするので、時にはみすぼらしい姿にならなければならず、時には後ろ指をさされなければなりませんでした。
この道を開拓しながら、あらゆる苦難に遭いました。そのたびに、「神様はこれよりもひどい風霜を経てこられたのに、私がどうしてこれしきの風霜を経ずにいられるだろうか!」と考えました。公的な立場で受けた、そのような事情が多ければ多いほど、人が手にし得ない宝物を倉庫いっぱいに満たすことができるのです。
9 韓国においても、監獄から出発したのが統一教会の歴史です。呪いと背反と迫害の道から始めました。私は骨のない男ではありません。西大門刑務所に入っていた時、拘置課長という人が私を見て言った言葉を忘れません。死んでも忘れられません。一ヵ月もたたないうちに、彼らが私を訪ねてきて、「昔、聞いていた統一教会の文某と、今、(実際に)知った文某は違う」と言って謝罪するのを、この目ではっきりと見ました。
正義は、どんなに残酷な迫害の鎖の中でも勝利することを見てきたのです。ですから、正義の道は大変ですが、神様が求めているその群れの道に責任をもっていく道なので、落胆するのはやめようというのです。私は、落胆しませんでした。受難のむちの跡があまりにもたくさん残っているとしてもその時に受けた傷は、何ともないというのです。
10 平凡なことをも、絶対的な価値の基準に上げるのは、受難の境地でのみ可能です。皆さんが、獄中生活の中や、厳しい飢饉の状況に立たされれば、分かるでしょう。試練や受難は悪いことではありません。試練や受難の中で、生命の価値を立てていく力と希望と欲求をもった人にとっては、その試練と受難の困難が、困難としてだけで終わるのではなく、未来における喜びの刺激となり得るのです。また、未来の喜びだけでなく、希望の国を訪ねていくことができます。
困難を克服しようとする希望をもっていれば、その場から喜びの天国を成就することができます。困難を克服しなければ、どんな希望も成就されないので、愛の神様は、この先に迫りくる試練の舞台を克服できるように、人間を鍛錬させるのです。ですから、その鍛錬の過程は、鍛錬自体で終わるのではなく、喜びの刺激をより価値あるものとして感じられる、一つのプレゼントとして下さった受難の道だというのです。このように考えるとき、その受難は悪いことではなく、困難も悪いことではありません。それが、私たちの幸福の基盤となり、あすの幸福を相続できる要因になるのです。
11 孤独な道を一人、開拓者の使命と先覚者の使命をもってたどってきても、お父様は、孤独な立場でぶつかる出来事について、一切話しませんでした。命を懸けてきましたが、私は孤独な人ではありません。皆さんの同情も要りません。私は幸福な人です。
天地の大主人であられる神様が、私を理解してくださるので、いくら拷問で血を流し、身が引き裂かれ、筋が断ち切られる立場になっても、私は不幸ではありません。愛する息子をこのような立場に立てられた神様の心情は、それ以上に切ないことを知っているので、不幸ではないのです。その場で天をつかみ、天を慰労できる国を探し出そうと苦労しているので、どんなに拷問がひどくても、それが問題ではありません。重なり合う十字架の道が立ち塞がっていたとしても、その十字架の道が私を敗北の困難と絶望の環境に追い込んだとしても、お父様はそこで、新たな決心と新たな希望をもって歩むことを決意するのです。
12 今までの歴史の過程を見る時、歴史の主人公は、その時代で受難の峠を克服しながら、その国の希望を抱いて闘ってきた人たちです。そのような人たちが、歴史の主人公です。聖賢たちは、天意に従い、人間の世の中で肯定するものを否定するのみならず、世の中の方向を変え、希望の世界に向かって自分の一身を捨てて、その理念とともに環境の試練を克服してきた人です。
その聖賢の人生は悲惨ですが、その心の内で受けたすべての苦しみが、かえって喜びの世界と関係を結ばせる動機になったのです。
これまで統一教会が受難の道を歩んできたのは、統一教会を滅ぼすためではありません。あすの春の日を迎え、世界により光となる統一教会へと発展させる神様の愛があったからです。
13 私は、西大門の通りを、刑務所に向かって手錠をはめて歩いても、恥ずかしいとは思いませんでした。天地を見る時に、恥すかしいことはありませんでした。堂々としていたというのです。出所する時になって、四人ほどの看守たちが、「統一教会を信じます」と言ってきました。所長も私と何回か会いました。「世間で悪いと言われている男がこのような人だとは」と思ったのです。統一教会員たちが面会しようと、先を争うようにして門前に列をつくっていました。元気な青年男女たちが、明け方から列をつくって私に会おうとするのを見て、「ああ、よく知らなかったのだな」と感じたというのです。私たちは、そのような道を歩んできました。
皆さんは、過去に統一教会に反対していた教会と国から追い詰められ、追い出されて、囚人服を着ていたお父様を忘れてはいけません。囚人服を着て手錠をはめられ、裁判長の前に立ったお父様を忘れてはいけないというのです。今や無念なその時期を越え、私たちにも時が来ました。芽が出る春の日が来たので、地に種を蒔けば、芽が出るでしょう。
しかし、反対するところには芽が出ないでしょう。私たちが民族と同胞に代わって、これまで歴史的に築き上げてきた生命の偉業、愛の偉業をそのまま継承して立てるようになるとき、現在のキリスト教は今のところは私たちと怨讐になっていますが、その背後にいる数多くのキリスト教徒たちの行く道が、ここから開かれるのです。
第三章 ダンベリー刑務所での受難と真の父母様の勝利 第一節 真のお父様の脱税容疑での裁判 脱税容疑に関連した声明書の発表
真の父母様がワシントン大会をはじめ、アメリカで活発な活動を展開するや、これに反発する動きが組織的に起きた。その代表的な事件が、アメリカ下院の国際関係小委員会(委員長:ロナルド・フレーザー議員)聴聞会である。一九七八年三月二十二日から、四回にわたって朴普熙宣教師を証言台に立たせたこの聴聞会は、韓国政府がアメリカの議員たちに巨額のロビー資金を提供したという疑惑、いわゆるコリアゲートと結びつけ、統一教会の活動を阻止しようという政治的野心から起きたものである。
また、真のお父様は一九八一年十月十五日、脱税容疑でニューヨークの連邦地方裁判所に起訴され、数回にわたって法廷に出頭された。真のお父様は、そのたびに声明書を通して、アメリカを誰よりも愛しているが、いまだに人種差別と宗教的偏見が残っていると反論された。そして、アメリカと世界人類のために犠牲と奉仕の人生を生きてきたため、少しも恥じることはなく、潔白であることを言明されたのである。
1 統一教会は、日本で共産党を屈服させることにおいて、勝利の主軸になっています。これが国家的基準を越え、アジア基準を越えて、世界基準であるアメリカでも接戦になっていくので、全世界の共産勢力がお父様を攻撃するのです。ですから、あらゆる反対の嵐が全世界に吹いていきます。この嵐の影響を誰が受けたのでしょうか。今日の自由世界はもちろん、アメリカ自体も、キリスト教全体も、すべてがこの嵐を受けてお父様を総攻撃しています。お父様を擁護してサタン側に反対し、防御しなければならないにもかかわらず、反対の立場に立ってお父様と天の側に反対するというのです。
お父様は一人ですが、韓国までアメリカの影響を受けて、内的には支持するものの、外的には支持できない立場にあります。さらには、アメリカのカーター政府がコリアゲートと関連させ、フレーザー議員を立てて統一教会をたたき潰そうとしたのです。
2 ワシントン大会の会場に向かう時には、死刑囚が刑場に出ていくほうが易しいというくらい、本当に悲惨でした。しかし、神様の加護により、夢のようなことが起きました。地獄から復活したのです。ですから、このワシントン当局も突然、手を付けられなくなったのです。いつ市民と少数民族を通して、このような基盤をお父様が築いたのかというのです。
それで、彼らは延長作戦を取りました。徹底して世界的に締めつけていって、首を取らなければならないと考えたのです。フレーザー議員が代表してその仕事をしました。共産勢力とユダヤ人、キリスト教、アメリカ政府が一つになって攻撃を加えたのです。
アベルはいつも守勢に回り、カインはいつも攻勢をかけていたのですが、(それが)逆になりました。その時から、「フレーザー議員を攻めなさい!」と言ったのです。私が攻めていくことができるというのです。彼らが私たちを打つことによって、私たちが守勢から攻勢に転換しました。
3 アメリカでフレーザー議員と闘うときに、お父様が躊躇して「後退だ。世界を支配するその国と、どのようにしてぶつかれというのか」と、臆病者のように行動していれば、神様のみ旨を成就できず、完全に掃き捨てられてしまいます。
ゴリアテと戦ったダビデのように、何も恐れずに正面から攻めたのです。飛んでいく砲弾、飛んでいく矢のように、心臓部を突破していくという決意をもって、「お前が突破されるのであって、私が突破されるのではない」と言いながら進みました。このような闘いをしたので、アメリカが突破されたのです。今やどの角度から見ても、私たちが勝利しました。
4 お父様がアメリカで活動するのを見て、国会や国務省では大騒ぎです。そして、フレーザー議員が国務省と国会、共産勢力、ユダヤ教、キリスト教に代わって、統一教会に反対する旗手となって闘い、自分の力を過信して倒れたのです。全世界に知れ渡るほど大騒ぎをしました。ですから、国会議員たちがすべて私たちのPRチームになり、「ああ、おめでとうございます!」と言いながら、電話をかけて訪ねてくるようになりました。
それで、「勝った」と言って万歳を叫び、興奮している時、私は「あまり興奮せず、静かにしなさい」と言いました。負けた人は弱者ですが、天は弱者を打つようになっていないという話です。弱者を保護してあげるのが天の行く道ですから、「統一教会は、フレーザーに勝ったといってあまり喜ばないようにし、通りに出て踊ったり、自慢したりしないようにしなさい」と言いました。それはフレーザーに勝つと同時に、フレーザーの子孫にも勝つことなのです。その子孫たちが、お父様は素晴らしいと称賛するでしょう。
5 今回、フレーザー議員が選挙で負けたのは、お父様と闘って負けたからだということを、世の中はすべて知っています。一日に新聞の四面にわたって記事が出たのは、世界の歴史上、記録的なことでしょう。それが言論界の最後の攻勢だというのです。「フレーザーが勝つ」と言って喜んでいた共産勢力を、すべて一掃してしまいました。最後の闘いで、彼らが負けたのです。
ヤコブは天使と闘うとき、互いに組み合っていましたが、天使は、勝てそうにないので、ヤコブのもものつがいを外したのです。それでも、ヤコブは手を放しませんでした。そのようにして祝福してもらったのです。そのような闘いをしました。お父様は、その人々がいくら反対しても負けないというのです。神様が助けてくれるのかもしれませんが、お父様は頭が良いというのです。「文先生と闘っては利益にならない」として、「最も恐ろしい人」いう名札を付けられました
6 古今東西を問わず、義のために生き、神様のために献身してきた人々は、必ず険しい茨の道を行かなければならず、当代に大きな苦難を味わわなければなりませんでした。その代表的な方が、イエス・キリストであり、そのほかにも、世界の歴史時代に、その実例を数多く見いだすことができます。私は一生を捧げて、神様と世界の前に献身することを決心して以来、六十年の生涯を生きながら、多くの苦難を経てきました。このような歴史的教訓を知っている私が、どうしてこの時点まで来て、茨の道、苦難の道を嫌だと思うでしょうか。私はこのたび、アメリカ政府が私を告訴したことについて、無念であるとか、腹立たしいとか、恨めしいとは思いません。この機会が、誰よりも無念さを味わわされ、誰よりも恨めしさを味わわされ、誰よりも寂しさを味わわされた神様の苦痛に同参(一緒に参加すること)する機会だと考えれば、かえってこれが栄光の試練になることを主張したいと思います。私は、良心の呵責を感じません。私が歩んできた一生を振り返ってみるとき、真実に、神様のために生きてきた生涯であり、人類と世界の前に犠牲となり、奉仕する生活を送ったという確信があるため、私は世界のどのような法廷も、それ以上のものも恐ろしいとは思いません。私は今まで十年間、アメリカで、すべての心血を注いでアメリカを愛し、アメリカの精神と道徳の復興のために、血と汗を注いできました。歴史は、この事実を否認できないでしょう。
7 今日、神様の摂理から見るとき、アメリカが心を入れ替え、真実に神の国にならなければ、世界を共産主義の魔の手から救う道はありません。私がアメリカで手にしたものは何もありません。私は、世界の統一教会運動の総力をアメリカに傾注してきました。アメリカは、お金持ちの国、援助をする国として知られています。しかし、統一教会の場合だけは、それと正反対に、アメリカは統一教会から精神的、物質的に援助を受けてきた国なのです。もし私が、アメリカを愛し、このようにしてきたことが罪ならば、私はためらうことなく、断罪を受け、十字架の苦難を拒否することもありません。
8 今日、美しいアメリカ、偉大なアメリカに二つの弱みがあるとすれば、それは宗教的偏見であり、人種差別です。特に、人種差別の問題は、リンカーン大統領が血の代価を払ったにもかかわらず、いまだ未解決な部分として残っています。また、アメリカの現代史で、あの有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は不義と闘い、高潔な祭物となりました。今やこの闘争は、統一教会の闘争になりました。東洋から渡ってきた統一教会の運動は、今日、アメリカで排斥されているすべての少数民族にとって代弁者となり、チャンピオンとなりました。私はこの機会に、アメリカで少数民族連合会を創設するに至りました。私は、今回の帰国に先立ち、その基金まで準備して帰ってきました。今、アメリカで燎原の火のごとく盛り上がっている少数民族連合の人権運動は、今後、一九八〇年代を走るアメリカにとって義なる運動になるでしょう。神様が生きていらっしゃり、真理があるとすれば、歴史はこの方向に流れていかざるを得ないのです。
Create your
podcast in
minutes
It is Free