真の父母様は、「心情文化世界を創建するためには思想と価値観の統一が必要である」と語られ、一九七二年八月二十日、「統一思想研究院」を創設された。特に、二十世紀の冷戦時代に際立って対立してきた、唯物論中心の共産主義と唯心論に基づいた自由民主主義の二大思想を批判、克服できる代案思想として「統一思想(頭翼思想)」を提示され、これを深く研究、発展させて、平和世界の具現に寄与するため、「統一思想研究院」を立てられたのである。
1 今後、新しい統一史観、新しい統一哲学の確立と、新しい文化世界の創建が、アジアの韓半島を中心として成し遂げられなければなりません。これは、神様が創世前から理想とされた最終的な希望の基点であり、心情の基点です。また、堕落世界を解怨成就できる基点です。
2 今後の世界は、私たちに包囲されるようになっています。このようになってこそ、多くの犠牲を払わず世界を短期問のうちに神様の懐に導いていくことができるのです。今、そのような計画を立てています。ですから、皆さんか理解できないことを展開しているのです。
それで今、「統一思想研究院」をつくっています。現代文明は、学問的な面で哲学を中心として左右されるので、このような学問的根拠を中心として体制を強化し、世界の新しい文化・思想界に影響を及ぼすだけでなく、主導権を握ることのできる基盤を築かなければなりません。
3 「国際勝共連合」のメンバーたちは、立派な講師になるために錬磨しなければなりません。そして、勝共連合の組織は、班組織を強化しなければなりません。このことに、勝共連合と統一教会全体が総力を挙げて取り組まなければならないのです。また、「世界平和教授アカデミー」と「全国大学原理研究会」、「(国際)基督学生連合会」も総力を挙げて取り組まなければなりません。そうして、まず十万人の班長を擁するようにしなければなりません。これからは精神武装をしなければならないのです。そして、「統一思想研究院」は、各組織の責任者たちが講義をするときに、横道にそれているかいないかを正しく指導、監督しなければなりません。彼らが講義したものを録音して、いつでも点検し、それが間違っているときには、すぐに正さなければなりません。私たちの団体が大きくなってきた以上、公認された内容を発表しなければならないのであって、私的な内容を発表して問題になってはいけないというのです。「統一思想研究院」は、思想的な体制整備の総責任を負わなければなりません。
4 日本とアメリカと韓国の「統一思想研究院」が会合を開いて歴史観を確立し、どのように宗教と思想を連結させるかを明確にしなければなりません。それを明確にしなければ、問題になります。派閥が生じるというのです。宗教と思想の問題とは、思想が先か、神様が先かということです。それをどこから定着させるかが問題です。互いに主張が異なるようになれば、分裂しやすいのです。ですから、アメリカのブリッジポート大学の研究員と、日本と韓国の専門家たちが議論し、評価を下さなければなりません。神様が先か、思想が先か、原理が先かというのです。思想というものは対象であって、主体になることはできません。また、思想の起源が問題になります。神様がいなければ、思想は空中に浮いてしまうというのです。根源を一つに規定できる論理的な核を中心として、思想を展開しなければなりません。思想の起源に対して答弁できなくなれば、将来において二つに分裂するので、問題が大きくなるというのです。本筋をつかんで決着をつけなければなりません。
5 この世界に誰が責任をもつのでしょうか。特定の個人の思想では、いくらやっても責任をもてません。歴史始まって以来、既に探究された材料をもう一つ余計に残す廃棄物になるだけです。そのように見るとき、この世界に誰が責任をもって導いていくのでしょうか。物本主義と唯物思想は、すべて失敗しました。また、人本主義思想は、享楽主義や退廃思想と直結します。ここで必要なものとは何でしょうか。
もし神様がいるとすれば、その神様は、この世界をどのように考えるかという問題を再検討しなければならないでしょう。これを理論的に追求しなければなりません。お父様は長年、歴史的な思想体系を検討しながら、これから民族が進むべき方向を考えてきました。そして「神様が見るとき人間世界に絶対必要な価値のある内容があるはずだ。歴史が追求し、人間が到達すべき最後の目的点があるはずだ」と考えたのです。
6 世界を動かそうとすれば、思想的な面で王座に上らなければなりません。これが最初の課題です。その次には、科学技術において、世界の王座に上らなければなりません。次に、経済的な組織編成において、世界の王座に上らなければなりません。その次は、言論界で世界の王座に上らなければなりません。このようにすれば、世界をすべて動かすことができます。
第一に思想、第二は科学技術、次に経済、その次に言論です。この四大分野で覇権を握る基盤を築けば、世界を動かすことができる精神的基調の前に、相対圏が形成されると考えるのです。そのようにしておけば、政治的基盤は自然にすべて解決します。今までお父様は、生涯を捧げてこのようなことをしてきました。原理的主体の前に対象圏の世界基盤を築くため、今まで一人で歩んできたのです。
7 今後、国家は必ず思想戦を迎えるようになるでしょう。思想戦に直面するという事実を、大韓民国の為政者たちは知らずにいます。私は特別な天の恵沢を受けた人です。未来について予感することができ、測定できる知能的な能力をもっています。そのような私が見通したことは、今後、世界史の路程の上に起きる思想戦で生き残る人にならなければ、世界を指導できないということです。
ですから、人が反対し、迫害しても、「私が行く目的は違う」と考えたのです。ほかの人々が、少年時代から青年時代の、花のような青春を誇ることができる時代をすべて無為に過ごして遊ぶ所を訪ねていくとき、私はその反対の道を行きました。「あなたたちはそのように行くが、私は思想戦を突破するこの道を行かなければならない」と思って、歩んできたのです。
8 「統一思想」とは何でしょうか。この宇宙の根本問題に対して、唯物史観と唯心史観という二つの史観が展開されたので、根本的で哲学的な問題を扱って解決するための方案を講究し、体系化したものが「統一思想」です。すべてのものを統合して新しい世界観と新しい人生観を提示する目的で新たに確立し、新たに体系化したものが「統一思想」です。
9 この世の中には多くの思想がありますが、「統一思想」は主体的な思想です。「統一思想」は神様の思想に通じるので、主体的な思想なのです。民主世界と共産世界を一つにする思想です。その次に、宗教者と非宗教者を和合させます。ですから、その目的は、統一世界、一つの世界をつくることです。
10 「統一思想」は、主体と対象の観念を基盤としています。統一は、二つが一つになって初めて成し遂げられます。男性と女性が一つにならなければならず、父母と子女が一つにならなければならず、家庭と社会が一つにならなければならず、社会と国家が一つにならなければならず、国家と世界が一つにならなければなりません。この統一観に基づいて、思想や理想という言葉が出てくるのであって、一つになり得る目的がなく、道がないとすれば、すべて砕けていくのです。そして、主体と対象の観念を入れれば、目的観は自然に出てくるので、共産主義の弁証法は砕けていくのです。
弁証法は、「発展するためには主体と対象が闘争しなければならない」と言います。矛盾したものが、互いに闘争しながら統一されるというこの論理は、完全に砕けていくというのです。それは目的を認めていません。主体と対象がなければ、存在を形成することは不可能です。これが一つになってこそ、完全なものになるのです。
11 本来、神様は、天地を創造するとき、神様のために創造したのではありません。神様は、自分のためである前に、まず相対のために天地を造りました。相対に完全に与えたあとには、その相対のすべてのものが自分に戻ってくるのですが、戻ってくるときは、与えたものにプラスされて、アダムとエバにまで戻ってくるのです。ですから、神様は億万長者になります。それゆえ、「良(善)し」と言われたのです。
完全に与えれば、その圏を占有するのです。与える方法には千万の種類があります。言葉でも与えることができ、行動を通しても与えることができます。その方法は無数です。そのような立場で、相対のために生きる世界観をもって出てきたのが「統一思想」です。聖書のすべての道理は、ここからすべて解けるようになるのです。
いかなる経書も、この原則に置き換えれば、その核を正確に知ることができます。そのような点から見るとき、「統一思想」の内容をもって進めば、驚くべき内的統一が成し遂げられます。外的統一ではなく、根本的統一が成し遂げられるというのです。神様の心情を掲げて現れてきたのが「統一思想」です。
12 私たちは今、国のために血と汗を流しながら活動していますが、国だけのためではありません。未来の世界のためなのです。超国家的であり、超民族的であり、超人種的な立場で、国境を越えて互いが愛し合い、生命までも交換できる大家庭をつくろうというのです。言い換えれば、神様を中心として血が通じ、生命が通じ、愛によって結束できる一つの大家庭をつくろうというのです。これが「統一思想」です。統一教会の思想であり、世界的な思想です。
13 私たちが福地天国を見つめて歩む統一の行路で、怨讐視すべきものとは何でしょうか。国境が問題です。民族感情を超越しなさいというのが「統一思想」の主張です。ですから、私たちは民族を超越しなければなりません。アメリカやアフリカの人々が問題ではなく、彼らを同族以上に愛する実践者になれるかが問題です。そのようにしなければ、世界を救える主導的な責任者になれないというのが「統一思想」です。
したがって、愛の道には犠牲と克服が伴うものです。その愛の本質と核心は、犠牲になり、自分を克服するところにあります。ですから、宗教では「犠牲になれ、奉仕せよ」と言うのです。それが愛の行く道だからです。犠牲になって泣くのではなく喜ぶのです。
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