真の父母様は、長きにわたる祈りと瞑想の生活を通し、絶対真理である「統一原理」を探し出された。これを通して体系化した「統一思想」は、社会に適用すれば社会の問題が解け、世界に適用すれば世界の問題が解けるようになる。これは、いまだかつてなかった新しい世界観であり、宇宙微であり人間観であり摂理観であり、歴史観である。また、すべての宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもある。このような「統一思想」に立脚した「勝共理念」は、共産主義を批判、克服できる明確な代案を提示する。左翼と右翼を一つに束ねることのできる代案思想が、正に「頭翼思想」、すなわち「神主義」なのである。
14 今日の宗教界を覚醒させ、世界的な思想界を新たに覚醒させる使命を果たすために、一つの目的観を提示したものが「統一思想」です。「統一思想」は、漠然とした立場を取るものではありません。神様を中心として、垂直的な方向を取っていくのです。その垂直的な方向とは、心情の基盤です。父母と子女の間の心情関係は、歴史が変遷したり、時が過ぎて歳月が長くなったりしたからといって、薄らぐことはありません。歴史が長くなれば長くなるほど、時間がたてばたつほど、薄らぐのではなく、かえって情が厚くなります。より深く結びつくというのです。もし父母と子女が離れ離れでいるとき、息子のいる所から父母に便りが来たり、あるいは父母が息子に便りを伝えたりすれば、その便りは、今までのあらゆる願いを充足させることができる刺激になります。その便りが、第二の出発の要因になり得るのです。これを、父子関係の心情世界を通して体得することができます。私たちが神様を「父」と呼び、この地に暮らしている人々を「子女」と言うとき、天の父母と地の子女たちが歩む道でも、それはやはり同じことなのです。
15 「統一思想」、「神主義」は、「頭翼思想」です。右翼でもなく、左翼でもなく、頭翼です。人類の真の平和は、右翼でも実現できず、左翼でも実現できません。その根本の理由は、右翼も左翼も、利己主義を解脱できないからです。自分を中心とし、自国の利益を中心として進むときには、永遠になくなることのない利害の衝突ばかりが存在するのであって、統一もなく、平和もありません。したがって、利己主義を打破する新しい世界主義が現れなければなりません。自分より他のために生きる利他主義は、ただ神様の理想からのみ出てくることができます。それは、神様が愛の本体であられ、愛の本質が自分を犠牲にして他を生かす利他主義だからです。したがって、「神主義」の本質は愛であり、この思想は、人間の四肢五体を動かす頭のような中心思想です。ですから、「頭翼思想」です。右腕も左腕も、実際、一つの体にぶらさがっています。頭がなければ、右腕と左腕は互いに赤の他人となって争いますが、頭が中心に定着していれば、右腕も左腕もすべて、頭の命令に従って、体全体のために働く、一つの協同体になるのです。
16 民主世界は唯心圏であり、共産世界は唯物圏です。民主世界は内的で天の側であり、共産世界は外的でサタンの側です。唯物と唯心は一つです。唯物と唯心が一つであることが分からずに、分かれて闘っています。高い頂上から見れば、「あなたも人であり、私も人だ」というのです。それが「統一思想」です。頂上では闘うことができません。
二本の手があってこそ完全です。一方の手だけではいけません。目も二つ、腕も二本、脚も二本ですべてペアです。道を歩くのを見れば、腕や脚が互いに反対に動きますが、それが正しいのです。互いに反対ですが、それが正しいというのです。ところが、何かをつかむときは、一緒に動きます。反対になるのも良く、一つになるのも良いのです。反対だからといって、すべて悪いのではありません。両方とも良いのです。ですから、「統一思想」は偉大なのです。
17 民主主義は兄弟主義です。兄弟主義を経て父母主義を求めていかなければなりません。そのためには、父母主義の教えと世界観がなければなりません。それが「統一思想」です。「頭翼思想」を中心とした「神主義」です。この論理的内容は、歴史とともに比例的基準で「相応相和」する主張であって、「相反相克」する内容ではありません。ですから、神様が立てる理想的な完成の時を中心として、カインとアベル、ソ連とアメリカ、左翼と右翼が、父母様を中心に回っていかなければなりません。回れ右をして本然の地に行かなければならないのです。
その道を行くために数多くの道人たちが現れましたが、その道人たちは、行くべき道を知らずにいるのです。神様とは何かを知りません。曖味なので混乱するのです。混乱した宗教を収拾することはできません。統一教会はあまりにも理論的です。理論を知っても、実践をしなければ駄目です。誰よりもそれをよく知っているお父様は、それがどれほど恐ろしいかが分かるので、走っていても、さらに速く走るために自らをむち打ったのです。そのようにしなければならないのが、天運の行く道です。
18 「神主義」とは何でしょうか。真の愛を中心としなければならないのですが、偽りの愛によって家庭が統一できませんでした。それが悪魔主義です。偽りの愛によって、統一されなかったのです。体と心が分かれ、夫婦が分かれ、息子、娘が怨讐になってしまったというのです。そうして、神様までも怨讐になってしまいました。そのように偽りの主人である悪魔主義が出発したので、「神主義」が出てこなければなりません。
偽りの愛によってこのようになったので、「神主義」は真の愛を中心として、真の個人、真の夫婦、真の家庭をつくらなければなりません。分離ではなく統一するのです。神様の真の愛で統一しなければなりません。これが「神主義」であり、「頭翼思想」です。
偽りの愛を中心として、すべてが怨讐になり、分離されてしまいました。統一がなく、家庭と家庭が分離されてしまったというのです。家庭を中心として、数十万の民族に分裂する様相を呈し、世界を戦場にしたのです。サタンが、神様のみ旨が成就されないように、混乱した世界をつくっておきました。偽りの愛によって分裂した世の中をつくったのが、悪魔主義です。これは分裂主義であり、地獄主義です。このように分裂した個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を、真の愛と真の父母を中心として統一するのです。これは、悪魔と対峙する主義なので、「神主義」です。
19 「頭翼思想」とは何でしょうか。根がどこなのか分からずに混乱している枝葉のように、ばらばらに動いている四肢五体を、頭を中心として統一体にし、完全な人格をつくるための主義です。「神主義」は、真の愛を中心として統一する主義であり、麻痺したあらゆる細胞的な内容を「頭翼思想」を中心として統一する主義です。
サタン主義は分裂させ、細部をすべて麻痺させます。そのように分裂させたものを、神様の真の愛を中心として統一、連合し、完全なものにする主義が「神主羲」です。悪魔主義は、偽りの愛を中心として、自分だけのために生きる愛をもって、人間を戦場のような混乱の麻痺状態にしましたが、「神主義」は、真の愛を中心として、すべての麻痺を解いて完全に正常な人間にし、神様を父として侍ることのできる息子、娘にする主義です。
20 サタン主義によって分離され、「神主義」によって統一されるのです。体や精神だけを統一するのではなく心身を統一しなければなりません。精神自体が麻痺していて、体自体が麻痺しているため、体と心を完全に統一させ、正常な人間にして、神様を知り、悪魔を知る人になるようにしなければなりません。神様と悪魔を完全に知って、神様と悪魔を分立させることのできる主体的な人間を再び取り戻すためのものが「神主義」であり、「頭翼思想」です。ですから、「神主義」は、「統一思想」とも同じです。「統一思想」は、真の愛を中心として投入し、投入して忘れるものです。本然的な人間は、愛によって完成するようになっています。神様が無限に投入したその愛を通して、心身一体の統一圏を成し遂げるとき、ここから理想的な男性と女性が生まれるようになります。そうして、その男性と女性が結婚して家庭を築くようになるとき、その家庭から天下統一が始まるのです。真の愛の神様を中心として、体と心を統一し、家庭を統一して、神様の息子、娘になり、神様の愛の相対になるためのものが「神主義」であり、これを教えるのが「頭翼思想」です。
21 「統一思想」は、心情哲学です。心情哲学と言うときには、人と関係していることを意味します。思想や原理との関係より、人間と関係が結ばれていてこそ、人間の問題を解決できるのです。ですから、人格的な神様という規定は、本当に驚くべきことです。人格的な神様と言っても、相対がいなければ存続することはできません。人格的な神様が人間を造った目的は、愛の対象が必要だったからです。
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