12 今まで人々は、自分一人が救いを受けるために信仰してきました。私たちの信仰は、そのような信仰とは根本的に異ならなければなりません。内容が異ならなければならないのです。「私一人の救いのためであれば、世界を捨て、国家を捨て、氏族を捨て、家庭を捨てよう」というのが、今まで宗教が追求してきた道でした。
しかし、今日、統一教会が行く道は、これとは異なります。個人を必要とするのは、家庭をつくるためです。家庭を必要とするのは、氏族をつくるためです。氏族を必要とするのは、民族をつくるためです。民族を必要とするのは、国家を形成するためです。その国家をつくるのは、国家自体のためではなく、世界をつくるためです。根本的に違うというのです。
ですから、国家形成の基本は家庭です。したがって、私たちは、個人の救援を目的とするのではなく、家庭の救援を目的としなければなりません。過去に、私たちは神様と縦的な立場で相対的関係を結びましたが、この時代には、縦的な立場でのみ相対的関係を結んではいけません。それは、どこまでも自分に限定されたものです。
今までの信仰生活は、自分に限定されたものでした。縦的な内容を備えて自分が主体となり、縦的な一つの実体となって、その実体は横的な一つの相対的基盤を決定しなければなりません。これは、今まで信仰者たちが信仰生活をしてきたものと異なります。
今までの一般の宗教が願う立場と、今日、統一教会が願う立湯は全く違うというのです。
13 この世には数多くの人がいますが、大きく二つに分けてみれば、男性と女性に区分されます。彼らが一つになることのできる秘法を模索することが、私たちの根本目的です。今までそのような結実的な家庭の起源が出てこなかったので、私たちはそれを模索していくのです。そのような起源が現れて種を蒔けば、新しい木になるでしょう。これが統一教会の祝福です。
知恵深い人は、個人的な頂上から家庭的な頂上に、いかに飛び越えるかを考えます。また、どのように家庭的頂上から氏族的頂上に飛び越えるかを考えるのです。そのために歩む人がいてこそ、家庭が救われ、そのような家庭があってこそ、氏族が救われるのです。また、その氏族は、民族の頂上を越えていかなければならず、その民族は国家的頂上を越えていかなければなりません。その次に、国家が世界的な頂上を乗り越えれば、世界復帰は簡単に実現されます。
このように、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の七段階を越えていかなければなりません。この七段階を越えて八段階に上がれば、神様と通じ合うようになるのです。
14 イエス様は、「神様は私の父である。私は神様のひとり子である」と言いました。そのひとり子は、父の愛を根こそぎ受けるようになります。イエス様は、神様と人間の関係をはっきりと明らかにしました。天地の核心を説いたのです。また、「神様のひとり子として、その初愛を受けた」と言いました。そのような神様の愛を中心として論じれば、イエス様以上の人はいないという結論が出てきます。
その次に、イエス様は御自分のことを新郎、信徒のことを新婦と言いました。相対がすべて新婦になるというのです。実際、新郎と新婦以上に近いものはありません。また、イエス様は「私はあなたがたと兄弟である」と言いました。それは、神様を中心とした神意による家庭と、人意による家庭について語ったのです。
人間が願うのは家庭です。男性も女性も、成長すれば家庭を築きます。人情の安息所は、家庭から始まるのです。天情の安息所も、家庭から始まります。イエス様は、神様を中心とすると同時に人間を中心とした、すなわち、神様と人間が一つになった家庭を模索しました。理想的な世界は、神様と人間が合一した家庭が出てきてこそ、実現されるのです。
神様の解放と父母の宗教宗教の究極的目標は、人類を罪悪と苦痛から解放し、神様が構想されていた創造本然の世界を回復することにより、神様を解放してさしあげるところにある。そのため、真の父母様は、一生涯、子女を失った神様の恨を解怨するために全力投球され、ついに二〇〇一年一月十三日、神様王権即位式を挙行されることにより、実体的に神様を解放してさしあげたのである。また、世界には数多くの宗教が出現したが、これらの宗教は復帰摂理歴史の進展に従って、異なる時代的使命を担ってきた。真の父母様は、「僕の宗教、養子の宗教、息子の宗教時代を経て、父母の宗教が登場する」と語られ、統一教会が父母の宗教の役割を果たさなければならないことを強調された。そして、父母の宗教は、神様の愛を中心として創造本然の父母を探し出すことにより、すべての宗教を統一し、人類を一つにできる最後の宗教であると説明された。
15 宗教を信じるのは、「私」が救いを受けるためではありません。イスラームを信じ、キリスト教を信じるのは、私が救いを得るためではないのです。神様を解放するためです。ムハンマドも、自分より人類と神様を愛することを願い、イエス様も、自分よりも人類をより愛し、神様をより愛することを願うというのです。お父様も、自分よりも人類を愛し、神様をもっと愛しなさいと教えています。
自分以上に人類を愛し、また人類より神様をもっと愛するというのが鉄則です。宗教者たちの目的は、人類を解放し、神様を解放することです。
16 復帰路程は、個人復帰にのみ該当するものではありません。個人を種として家庭を復帰しなければならず、家庭を種として氏族を復帰しなければならず、氏族を中心として民族、国家、世界、ひいては天宙復帰を完成してこそ、神様の解放が起きるのです。神様が今まで解放されなかったというのです。御自身の創造理想を通して立てた経綸が、天宙史的な立場で完成を見ることのできる立場に立てなかったため、今まで神様が計画したすべてのものが失敗した立場に落ちたのです。それゆえ、神様も今に至るまで、解放された立場にいらっしゃらないというのです。そのように失敗したことから解放されるようになるとき、初めて神様の解放が起きるのです。
ですから、宗教の使命は、正に人類を解放することです。その人類を解放する目的は、人類の解放だけで終わるのではなく、神様までも解放しなければならないからです。人類が完成するとき、神様のみ旨が完成し、人類的で天宙史的な幸福の起源が、神様を中心として出発するのです。このような原則が国家にも適用され、氏族にも適用され、家庭にも適用され、個人にも適用されるのです。
17 今まで、救いの目的とは何かを誰も知りませんでした。定義を下すことができませんでした。このような混乱した世界で、統一教会は救いの定義を明確にしました。それで、救援摂理は復帰摂理だというのです。「復帰」という言葉は、偉大な発見です。アダムとエバが罪を犯す前、神様の愛を直接受けることができるその世界に帰ろうというのが、救援摂理の究極的な目的です。ですから、神様の救援の目的やメシヤの救援の目的、私たちが救いを受ける目的は一つです。すべて同じだというのです。
私たちが宗教を信じる目的は、罪のない世界、神様と本然の世界を訪ねていくこと、それしかありません。そして、兄弟である世界人類が一つになり、共に神様の愛の世界に帰ろうというのです。皆が神様に帰ろうというのが理想です。ですから、神様の目的と、メシヤの目的と、人類の目的は一つです。私たちは、この三つをすべて統一することができます。これが統一という命題です。
神様を解放し、メシヤを解放し、人類が解放され、皆が喜ぶ愛の世界をつくろうというのです。統一教会は、そのような観点を中心として出てきました。統一教会を通して、宗教を統一しようというのです。いかなる宗教でも、地上でこのような神様のみ旨に一致する宗教にならなければなりません。
18 私の生涯は、それこそ形容し難い茨の道であり、闘争と逆境の道でした。死の境に立ち、「これで最期だ」と思ったことも、一度や二度ではありません。事実、私が今も生きていること自体が、むしろ奇跡であると言わざるを得ません。私は、生きていらっしゃる私の父なる神様を知ってからは、一分一秒も他のことを考えることなく、ただただ天にいらっしゃる私の父のみ旨を成し遂げてさしあげなければならないという一念で、一生を貫いてきました。
神様は、人類をこの上なく愛していらっしゃいますが、この地上には、神様の愛を本当に知っている人は多くありません。神様は、この地上の全人類を幸福にしようという思いと、地上に天国を建設しようという思いに燃えておられます。神様の本性は真の愛であられ、本来、神様と人間の関係は父子関係でした。しかし、歴史を通して、人間はその神様を知らずにいるばかりでなく、その神様の胸に不孝の釘を打ち続けてきました。
天にいらっしゃる人類の父は、子女を失った父母と同様の断腸の思いと悲しみの恨を抱えていらっしゃることを、私は発見しました。私の人生の目標は、神様の積もり積もったその恨を解いてさしあげることです。神様を、悲しみと寂しさと苦悩から解放してさしあげることが、私の生きてきた目的でした。
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