10 皆さんがみ言を聞けば、そのみ言に同化しなければなりません。悲壮な話を聞けば、心で痛哭しなければなりません。春になれば、芽が再び出てくるのと同じです。み言には、そのような能力があります。普通の言葉とは異なります。お父様がそのような心情的圏内に、周波をつくっておきました。そこに入っていけば、その何かが存在します。普通の人の言葉とは違うというのです。心に響いてきます。心に響けば、私自身がそこに占領されます。
お父様自身も、自分が語ったみ言を訓読すれば、数十年が過ぎているのですが、その境地にすぐ入っていきます。真っ暗な夜中に朝の太陽の光を願うのと同様に、四十年前、明るい太陽の光を探し求めていたのですが、今や正午に至り、影もない世の中になったのです。明るい天下になったというのです。世界を必ず天の国に変えることのできる力を、み言はもっています。
そのような時代が世界に広がれば、世界にはサタンがいなくなります。暗い世界はなくなるのです。地上・天上世界が光明の世界となり、神様の光を中心として愛することができる、愛の天地が連結されるというのです。そのような再創造の造化の能力をもっているみ言を発表したことが偉大なのです。
11 統一教会を創立したのが三十五歳の時です。み言集が六百巻を超えますが、統一教会を立てたその時のみ言も、数十年を経た今のみ言も、すべて同じ内容であって、そのみ言が上下したり、変化したりしたものがありません。それが偉大なのです。神様を中心として宣布したそのみ言の内容が、変わる世の中の曲折の中で、正面から衝突しようとしたのであって、逃げ出したり回避したりはしなかったので、お父様が有名になったのです。
12 皆さんがみ言集を読まなければ、霊界に行っても、お父様に会いにくることができないでしょう。地上で私がしてきたこと、関心をもって見渡して調査してみた内容が、み言集にすべて入っています。それを読まなければ、私が歩んできた蕩減復帰路程を発見することは不可能です。
イエス様について深いみ言を語りました。それをキリスト教の牧師が読んだとすれば、口を開いてお父様を「異端だ」と言うことはできません。そのような内容が入っています。一九六〇年代にそのようなみ言をすべて語ったのですが、今でも反対しています。お父様に対して反対する罪を犯すことは、二千年の歴史の勝利圏を形成したあらゆることに対して妨害するような、恐ろしいことなのです。
絶対視すべき訓読会の伝統訓読会は、絶対視すべき生活の伝統の中の一つである。真の父母様のみ言を読み、生活の中でそのまま実践する決意と動機づけの機会だからである。特に、真の父母様が提示された家庭教会は、訓読会が中心となるため、訓読会を通してみ言を絶対視し、生活化する伝統を立てなければならないことを強調された。
13 霊界も肉界も、すべての家庭が祝福を受けたその時になれば、万国は、真の父母様のみ言の訓読会を通して、一つの地上・天上天国になるでしょう。神様が最も好み、神様が最も立てたいと思うみ言が、真の父母様のみ言です。国をつくり、あらゆる人に教育したいみ言が、真の父母様のみ言だというのです。
そうだとすれば、誰が訓読会を一番喜んだでしょうか。神様が喜び、お父様が喜ぶ訓読会なので、神様が訓読会のチャンピオンの中のチャンピオンであり、長子王の中の長子王であり、家庭王の中の家庭王であり、国王の中の国王だというのです。
ですから、そのみ旨に従うお父様は、神様に続いて二番目として、地上世界で訓読会の長子権、父母権、王権まで神様に代わって備えるのです。また、あらゆる人たちは、お父様に代わって家庭の長子権、父母権、王権を継承することができ、平面的に対等で公平な地上天国が形成されることを願っているので、誰もが喜ぶというのです。
14 統一教会で訓読会を一番熱心にする方が神様です。次がお父様であり、その次がお母様です。お父様が語ったみ言なので、すべて知っているのに熱心にするのは、皆さんと和合するためです。完全な主体の前に対象をつくってあげ、父母様がしていたことを皆さんもできるようにしてあげるために、訓読会をするのです。
いつも神様と共に訓読会をするのです。ですから、皆さんの父母たちと共に訓読会をし、兄弟たちと共に訓読会をすることが、どれほどの福か分かりません。それが、神様に侍って暮らすことなのです。
15 お父様が、み言を中心として審判されています。神様が裁判長になり、検事の論告を通じた、その論告に相違があるのかないのかという立場で、私が審判を受けていると考えるのです。あのみ言を実践したのかという問題をめぐって、そのようにしているのです。そこに引っ掛かる内容かあれば悔い改めなければなりません。
今は、六千年を総決算して越えていかなければならない時です。ですから、霊界に関するみ言を今、訓読するのです。これを中心として、お父様がそのような位置を越えていこうとしている以上、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で一つになって越えていく時間にならなければならないので、再びこれを読んでいます。地上については私がすべて語りました。私が語ったことは、すべて行って語ったのです。実践して語ったので、その言葉がいつでも審判するのです。霊界に記録として残ります。
16 私は最近、み言を訓読しながら、感動するときがたくさんあります。誰かの話を聞くよりも感動するときが多くあります。私が語った内容をすべて知っているのに、涙を流すまいとしても涙が出てくるというのです。鼻を塞ぎ、涙をこらえようとすれば、目が泣き、目を塞げば心が泣き、心を塞げば全身が泣きます。口を塞げば心に血が流れ、心を塞げば四肢が感動するというのです。
その時は、私が泣きながら話をしましたが、今は笑顔で話をすることができます。そのような悲壮な峠を往来したのです。その幅がどれほど広いかと、感動したというのです。
17 私が語ったみ言を、私は知っています。どれほど深刻な歴史を経てきたか分かりません。血が沸き立つというのです。そのみ言は死んでいません。そのみ言を語った当時のことを思えば、今も痛哭するしかない神様です。そして、霊界にいるすべての指導者たちが涙を流す環境なのに、そのみ言の前に来て感動を受けない人がどこにいるかというのです。
18 統一教会の教会員たちは、訓読会の時間が慕わしくなければなりません。お父様自身がそうしています。訓読会の時間を慕わしく思っているというのです。すべて私が話したことであり、すべて知っていることなのですが、慕わしく思うのです。それは、千年、万年の生命の要素です。ですから、み言を抱き締めて夜を明かさなければなりません。一生の間、抱きかかえて読んだとしても味があり、そこに入り込んでそれを手離せないので、背負って歩かなければならないというのです。
19 霊界と肉界を統一したものがお父様のみ言です。訓読会のみ言です。これからは、霊界も肉界も、毎日のように訓読会のみ言を中心として、討論会をしなければなりません。訓読会は、毎日やらなければなりません。天地がそれを中心として、すべてがみ言の相対、み言の実体圏をどのように完成するのかが問題です。
それで、そのみ言に照らして、父親が誤れば息子が忠告しなければならず、妻が誤れば夫が忠告しなければなりません。上と下がありません。父母様の前に兄弟なので、兄弟圏で忠告できる時です。どの場においても、一人が出てきて、統一させるために訓読会をしなさいというのです。お父様が五十年前に語った話がそれです。毎日のように平準化教育です。み言を中心として、一生をそのように生きなければなりません。
その次に、自分が霊的体験をして、霊界を見て先祖たちに会って、霊界と交流できる環境をつくらなければなりません。ですから、み言を知らなければ通じません。み言をもって問い合わせてこそ、直接的に霊界や肉界が連結されるのであって、自分の考えが入れば通じないのです。
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