人間は、父と母の愛を通して生まれます。ところがその愛が誤ったので、生まれるのも誤って生まれるのです。それはどうしようもありません。このように誤った愛を通して生まれることによって野性のオリーブの木になったので、その枝を完全に切ってしまい、真のオリーブの木の真の愛の枝を接ぎ木しなければなりません。数千年育った野性のオリーブの木の枝を完全に切ってしまい、精誠を込めて真のオリーブの木を接ぎ木しなければならないのです。
ヤコブとエサウを中心とした血統復帰摂理
神様は、これをひっくり返す摂理をしてこられました。ひっくり返そうとするならば、どこまでひっくり返さなければならないのでしょうか。兄弟同士ひっくり返したとしても、成長したあとにひっくり返したとするならば、それ以前が問題になります。四十歳にひっくり返したとすれば、四十歳以前まではひっくり返していない結果になるのです。それで四十歳以上の人は救いを受けるかもしれませんが、四十歳以前の人は救いを受けられないのです。サタンがかみついてくるのです。これがなかなか治らない病になっています。
それゆえ、神様は仕方なく再び摂理をされるのです。アベルが死んだあとにセツを立てて、セツの一族を中心として、どこを尋ね求めていくのかというと、女性の腹中を尋ね求めていくのです。堕落は腹中から起こったからです。愛の種は腹中を通して生まれました。それゆえ、腹中を尋ね求めて入り、ひっくり返すのです。これがどれほど途方もないことでしょうか。
腹中に入っていってひっくり返さずしては、サタンが生まれてくる生命自体を神側に送ろうとしないのです。ですから、人々を逆さまにひっくり返すためには、やむを得ず父母の腹中にまで尋ね求めて入り、闘って勝敗を決めるという、そのような闘いをしなければならないのです。それゆえキリスト教は、歴史上にかつてない、神様のみ旨に対する宗教であるということが、ここに明らかにされるのです。
これをカインとアベルの兄弟からひっくり返そうとしたのですが、それができませんでした。それで兄弟の位置を狭めていくのです。兄と弟をひっくり返せる交叉点まで尋ね求めていくのです。そのようにして、カインとアベルの代をセツが継いでそのみ旨に従わせ、ヤコブとエサウの時代が来るようになったのです。ところが、一段階近い位置に行こうとするので、双子を立てて摂理せざるを得なくなったのです。どれほど近づきましたか。兄弟は兄弟なのですが、双子の兄弟なのです。
ここでまた闘わなければならないので、ヤコブとエサウが闘うことになったのです。イサクは誰を祝福しようとしましたか。兄エサウを祝福しようとしたでしょう?しかし、このエサウを祝福するようになれば大変なことになるのです。それで母のリベカが後ろ盾して、ヤコブを助けてあげるようになったのです。ここから母子協助が出てくるのです。
女性が先に堕落したので、神様の息子、娘を解放させるために、生まれるに当たっては女性が協助しなければなりません。女性が、サタンに引っ張られていくのではなく、神様の前に行くための助けをするのです。
ここでのイサクは、天使長の立場です。リベカは、自分の夫であるイサクをだます工作をして、ヤコブにすべての祝福を受けさせます。ところが、聖書を文字どおりに受け入れるとすれば、兄をだました詐欺師のヤコブが、いかにして神様の祝福を受けられたのかという疑問をもつことでしょう。しかし、奪われたものを取り返さなければならないので、そのようにしなければならないのです。天使長に奪われたものを取り戻すのです。
エサウとヤコブの路程において、母と息子が合同工作をして、誰をだましましたか。父をだましたでしょう?イサクをだましました。この三人はアダムとエバ、天使長と同じ立場です。イサクは天使長と同じ立場であり、息子のヤコブは将来来るべきアダムと同じ立場です。したがって、希望の息子として生まれ得る立場です。そして母のリベカは、エバと同じ立場です。堕落したエバは、神様の息子を身ごもれなかったという側があるので、希望の息子を出産することが願いなのです。
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